デジタル・ヒューマニティーズ(Digital Humanities / DH)は、人文学の研究課題とデジタル技術・データ・計算的方法を結びつける、広い研究領域です。
デジタルアーカイブの構築、テキストの電子化、データベース、自然言語処理、ネットワーク分析、GIS、画像分析、情報可視化、デジタル出版など、多様な研究実践が含まれます。
しかしデジタル・ヒューマニティーズは、単に「人文学研究にコンピュータを使うこと」ではありません。
2024年刊行の『Kompendium Computational Theology』第1巻では、DHの中心を、
人文学におけるデジタル的方法の開発・利用・批判的反省
として整理しています。人文学の研究課題に対して、情報科学をはじめ、工学、地理学、社会科学、図書館情報学などの方法を接続する研究実践です。
そのためDHが問うのは、「デジタル技術で何ができるか」だけではなく、デジタル技術によって、人文学の問い・資料・方法・研究環境・知識生産そのものがどう変化するのかも重要な研究対象になります。
ビッグテントとしてのデジタル・ヒューマニティーズ
デジタル・ヒューマニティーズには、現在も一つの厳密な定義があるわけではありません。
文学、歴史、言語学、哲学、考古学、芸術史など、それぞれ異なる研究文化を持つ領域がデジタル技術と接続してきたためです。
さらにDHには、計算的方法を使って人文学の問題を研究する領域という比較的狭い理解と、デジタル化によって変化する人文学の研究・教育・出版・アーカイブ・社会との関係まで含める領域という広い理解があります。
後者を象徴する考え方の一つが、Big Tent Digital Humanitiesです。
2011年前後の国際的なDHコミュニティでは、大学の研究分野だけでなく、図書館、博物館、アーカイブ、文化遺産、情報提供機関なども含めた、学際的で開かれたDHのあり方が議論されました。
この「Big Tent」は、DHの強みでもあり、同時に定義の難しさの原因でもあります。つまりデジタル・ヒューマニティーズとは、一つの方法を共有する単一の学問というより、人文学とデジタル技術が出会う、多様な研究実践・方法・制度・コミュニティの集合として理解した方が、現在の実態に近いでしょう。
「資料をデジタル化すること」だけではない
デジタル・ヒューマニティーズを理解するとき、まず区別しておきたいのが、digitization(資料のデジタル化)と、デジタルな研究そのものです。
書籍をスキャンする。写本を撮影する。史料をオンライン公開する。紙の資料をデータベース化する。こうした活動はDHの重要な基盤です。
しかし、資料をPDFにしただけでデジタル・ヒューマニティーズの研究が完了するわけではありません。
『Kompendium』第1巻で、神学分野ではすでに多数の全文データベースやデジタル版が存在する一方、デジタル版の作成はDH研究の終点ではなく、むしろ出発点だと指摘されています。
資料がデータとして利用可能になると、大量の文章を比較する、人物や概念の関係をネットワークとして分析する、時間的・空間的な変化を可視化する、人間が精読できない規模のコーパスからパターンを探、といった、新しい研究方法が可能になります。
つまり、デジタル化された資料を作ることから、デジタルな資料を使って新しい問いを立てることへ進むところに、DHの重要な展開があります。
デジタル・ヒューマニティーズの展開
デジタル・ヒューマニティーズの発展は、一つの直線的な歴史として簡単に整理できるものではありません。
ただし、研究活動の広がりを理解する一つのモデルとして、Defining Digital Theologyでは次のような段階が紹介されています。
まず、資料のデジタル化と研究インフラの整備。
次に、データの検索・収集・整理・分析の自動化。
さらに、Born Digitalの資料、大規模コーパス、Distant Readingなどを利用した分析。
そして、コーディング、Big Data、AIを含む計算的研究へと広がっていきます。
ただしこれらは古い段階が新しい段階に置き換わったという意味ではありません。現在でも資料のデジタル化は続いています。同時にアーカイブを作り、データを整理し、自然言語処理を行い、AIを利用する研究も存在します。すべて現在のデジタル・ヒューマニティーズの中で並行して行われています。
デジタル・ヒューマニティーズでは何をするのか
DHの研究実践は非常に幅広くあります。
『Kompendium Computational Theology』第1巻を見るだけでも、次のような方法が扱われています。
デジタル化とデジタル・エディション
テキスト、写本、画像、音声、映像などをデジタル資料として保存・整理し、研究可能な形で公開します。
単なる画像化だけでなく、検索、注釈、比較、再利用ができるような構造を作ることも重要です。
テキスト分析
スタイロメトリー、Named Entity Recognition、Topic Modeling、感情分析、談話分析、間テクスト性研究などによって、大量の文章から特徴や関係性を調べます。
ネットワーク分析
人物、文献、組織、概念、引用などの関係をネットワークとしてモデル化し、その構造を分析します。
空間分析
GISなどを利用して、歴史的・文化的現象と場所との関係を分析します。
情報可視化
複雑なデータや研究成果を、グラフ、地図、ネットワークなどの形で可視化します。
画像・音声・映像分析
デジタル・ヒューマニティーズの対象はテキストだけではありません。
画像、音楽、音声、映画、動画などについても計算的方法が利用されています。
研究インフラ
データベース、仮想研究環境、研究データ管理、Open Science、デジタル出版などもDHの重要な領域です。
『Kompendium』第1巻の構成自体が、マルチメディア資料、デジタル・テキスト分析、情報可視化、研究データ管理、コミュニティ形成、AI支援、デジタル出版までを一つの研究実践として扱っています。
この幅広さを見ると、デジタル・ヒューマニティーズが単なる「分析ツール集」ではないことが分かります。
デジタル技術は、人文学の問いも変える
デジタル・ヒューマニティーズが重要なのは、人文学研究を効率化するからだけではありません。デジタル技術によって、これまで扱えなかった規模の資料を研究できるようになれば、研究者が立てる問いも変化します。
一人の研究者が数十冊を精読する研究と、数万冊を統計的に比較する研究では、見える現象が異なります。
データベース、Distant Reading、マルチモーダル研究、研究ラボなどの登場によって、人文学の研究実践そのものが変化し得ることが指摘されています。Defining Digital Theologyでも、デジタルメディアの変化が認識のあり方にも変化をもたらす、という議論が紹介されています。
つまりデジタル・ヒューマニティーズは、既存の人文学的問いを、コンピュータで速く解くだけではありません。
場合によっては、コンピュータがあるから初めて立てられる問いを生み出します。これは計算神学にも直接つながる発想です。
データは「そのままの事実」ではない
一方で、デジタル・ヒューマニティーズがデータを扱うからといって、その研究が自動的に客観的になるわけではありません。
何を資料として集めるか。どの資料を除外するか。何を一つのカテゴリーとして数えるか。どの特徴をデータとして記録するか。これらはすべて研究上の判断です。
『Kompendium』第2巻では、データセットそのものが、特定の理論、世界観、分類体系、価値判断を反映する可能性が指摘されています。
研究対象を形式化・操作化する過程では、何らかの選択が行われます。その選択が別の解釈可能性を排除したり、既存の偏りをデータに再生産したりする場合もあります。
そのためデジタル・ヒューマニティーズでは、技術を使う能力だけでなく、以下の視点も重要になります。
- データ批判
- 方法批判
- 解釈
- 専門分野の知識
- 研究結果の検証
自動分析の結果をそのまま結論にするのではなく、人文学の専門知識によって検証し、必要なら分析方法を修正し、再び計算する。このような反復的な研究プロセスと、人間によるレビュー・専門知識による検証が重視されます。
デジタル・ヒューマニティーズは、人間による解釈か、コンピュータによる分析かという二択ではなく、むしろ両者をどう接続するかを考える研究領域でもあります。
計算人文学との関係
デジタル・ヒューマニティーズと近接する言葉に、Computational Humanities(計算人文学)があります。
この二つの境界も固定されているわけではありません。
デジタル・ヒューマニティーズが「Big Tent」として広がり、アーカイブ、文化批評、教育、メディア、インフラなどまで含むようになったのに対し、計算人文学という語は、計算・形式化・アルゴリズムなどの技術的側面をより前景化するために使われる場合があります。
『Kompendium Computational Theology』でも、この区別が計算神学という名称の背景になっています。計算可能性に重点を置く立場では、単に資料がデジタルであることより、人文学の研究課題をどのようにモデル化し、計算可能な操作へ変換するかが重要になります。
DTRでは、デジタル・ヒューマニティーズを広い研究領域として扱い、その中でも計算的方法へ焦点を当てるときに計算人文学との関係を参照します。
神学・聖書研究とデジタル・ヒューマニティーズ
神学とデジタル・ヒューマニティーズの関係には、興味深いねじれがあります。
神学・聖書研究とコンピュータ利用には長い歴史があります。
聖書や神学文献は大量にデジタル化され、全文データベース、デジタル写本、電子版などが早くから整備されてきました。神学には大規模なデジタル資料がすでに存在し、デジタル研究を展開しやすい条件があります。
聖書学については、Defining Digital Theologyでも、デジタル・ヒューマニティーズと計算的研究を比較的早くから利用してきた分野として位置づけられています。
一方で、神学者がデジタル・ヒューマニティーズの研究コミュニティそのものに十分参加してきたとは言いにくいという指摘もあります。『Kompendium』第1巻では、神学でデジタル研究が行われていないわけではないにもかかわらず、DHコミュニティにおける神学の存在感は弱かったと整理されています。
デジタル資料は豊富にある。計算的な先駆例もある。しかし、それらがデジタル・ヒューマニティーズという研究領域の中で十分に接続・自己記述されてこなかった、という状況があります。
計算神学は、この隙間を埋めようとする試みの一つです。
→ [計算神学について]
デジタル神学との関係
デジタル・ヒューマニティーズとデジタル神学も、同じものではありません。
デジタル・ヒューマニティーズは、人文学研究とデジタル技術の関係を広く扱います。
デジタル神学は、その中でも特に神学とデジタル文化の関係を問い、デジタル化によって神学そのものがどう変化するかを考えます。
たとえば聖書写本をデジタル化し、TEIで構造化し、検索可能なデータベースを作ることはデジタル・ヒューマニティーズの研究実践として位置づけることができます。
そこから、「デジタルな聖書は、読者が聖書を経験する方法をどう変えるのか」「検索やインターフェースは、どの解釈を可視化し、どの解釈を見えにくくするのか」と問うと、デジタル神学の領域とも接続します。
この意味でDTRにとってDHは、単なる「隣接分野」ではありません。デジタル神学が成立するための方法論的・制度的・知識論的な地盤の一つです。
→ [デジタル神学について]
日本のデジタル・ヒューマニティーズ
日本でも、デジタル・ヒューマニティーズに関する研究コミュニティ、学会、研究誌、データ基盤、デジタルアーカイブなどが形成されています。
DTRでは今後、日本のデジタル・ヒューマニティーズについても継続的に調査していきます。
現時点でDTRが行っている調査では、JADH(Japanese Association for Digital Humanities)、学術誌、一般財団法人人文情報学研究所、デジタルアーカイブ関連団体、政策資料などの公開一次資料を対象にしています。
ただし、日本DH全体を網羅した計量調査ではなく、公開資料を目的抽出した予備的調査の段階です。
その範囲から見えてきた一つの特徴は、日本のDHに倫理や規範的な問いが存在しなかったわけではないということです。
むしろ、標準化・研究評価・データ公開・アクセス・著作権・権利・研究責任・保存・持続可能性・ガバナンスといった、研究インフラや実務の中に規範的判断が分散して存在してきた可能性があります。
さらにJADHの2024〜2026年の大会テーマを追うと、AIの利用や持続可能なインフラから、authorship、ethical implications、care、ownership、responsibility、governance、powerといった問題へ、規範的な問いがより明示的になっていることが確認できます。
DTRでは、この動きを単に「DHが倫理的になった」と理解するのではなく、データ・標準・インフラ・アルゴリズムを設計する権威はどこにあるのかという問いから検討します。これはデジタル神学における、権威・媒介・共同体・人間観といった問いとも関連づけられるからです。
DTRでは何を扱うか
Digital Theology Reviewでは、デジタル・ヒューマニティーズに関連して、特に次のテーマを扱います。
デジタル研究方法
自然言語処理、ネットワーク分析、Topic Modeling、感情分析、可視化など、人文学・神学で利用されるデジタル研究方法。
データとモデル化
人文学的な概念を、どのようにデータ・カテゴリー・変数として表現するのか。
デジタルアーカイブと研究基盤
資料のデジタル化、データベース、研究インフラ、Open Science、研究データ管理。
標準と相互運用性
TEIなど、研究資料を構造化・共有・再利用するための標準。
AIと人文学
生成AI、LLM、機械学習などによって、人文学研究の方法や知識生産がどう変化するか。
倫理・規範性・権威
誰がデータを選び、保存し、分類し、公開するのか。技術的な設計判断の中にどのような価値判断が含まれるのか。
日本のデジタル・ヒューマニティーズ
JADH、人文情報学研究所、デジタルアーカイブ、研究基盤など、日本におけるDHの研究・制度・言説の動向。
神学・宗教研究とDH
聖書、神学文献、宗教資料にデジタル・ヒューマニティーズの方法を適用するときに生じる研究上・方法論上の課題。
DTRでは、デジタル・ヒューマニティーズについて、「どんなツールを使えばよいか」だけでなく、デジタル技術によって人文学が何を知識として作り、何を保存し、何を見えるものにしているのかを考えます。
主要記事
ここでは、デジタル・ヒューマニティーズを理解するうえでDTRが特に重要と考えるアジェンダを紹介します。
今後、たとえば次のようなテーマを主要記事として整理していく予定です。
日本のデジタル・ヒューマニティーズと規範性
日本DHにおいて、倫理・責任・権威がどのような語彙と制度の中で扱われてきたかを調査します。
デジタル・ヒューマニティーズと神学
DHの研究方法や研究インフラと、神学・聖書研究との接続を整理します。
デジタル・ヒューマニティーズと計算人文学
「Big Tent」としてのDHと、計算的方法を前景化する計算人文学との関係を考えます。
TEI・データ構築・研究インフラ
人文学資料をデータとして表現・共有するとき、どのような判断や標準が働くのかを扱います。
最新記事
〔ここにWordPress Query Loopでデジタル・ヒューマニティーズ関連の最新記事を表示〕
主な研究コミュニティ・研究資源
デジタル・ヒューマニティーズの国際的コミュニティ
デジタル・ヒューマニティーズは、研究者だけでなく、図書館、アーカイブ、博物館、情報科学などを横断する国際的な研究コミュニティとして発展してきました。Big Tentという考え方も、この学際性を象徴しています。
Japanese Association for Digital Humanities(JADH)
日本のデジタル・ヒューマニティーズ研究を担う主要な学術コミュニティの一つです。DTRでは、年次大会のテーマや研究動向も継続的に追跡しています。現在のDTR調査では、JADHの大会資料を日本DHの規範的言説を観察する重要な一次資料として利用しています。
人文情報学研究所(DHII)
日本における人文情報学の研究・普及に関わる組織であり、『人文情報学月報』やTEI関連資料などを公開しています。DTRでは、日本DHの研究実践と研究インフラを理解する資料として参照します。
このセクションは、今後DH専用の基礎資料を追加した段階で、国際学会、主要ジャーナル、研究センターまで拡張していく予定です。
関連する研究領域
[計算神学 — Computational Theology]
デジタル・ヒューマニティーズ、とくに計算的方法を神学的な研究課題へ接続します。
[デジタル神学 — Digital Theology]
デジタル技術・文化と神学との相互的な変化を研究します。
[デジタル宗教 — Digital Religion]
デジタル環境における宗教実践、共同体、権威などを研究します。
デジタル・ヒューマニティーズは、この三つの領域と並ぶ単なる四番目のカテゴリーではありません。
デジタル宗教がDTに対して社会的・実証的な地盤を提供し、計算神学が計算的方法との接点を提供するのだとすれば、デジタル・ヒューマニティーズはさらにその背後で、どのように資料をデータへ変えるのか。どのように知識を作るのか。どのような研究基盤を共有するのか。そして、その仕組みを誰が設計するのかを問う、方法論的・制度的な地盤でもあります。
したがって、DTRでは、DHを単なる「便利なデジタル技術の集積」として扱うのではなく、デジタル化された環境の中で、人文学はどのように知識を作るのか。そして、その知識を作る条件そのものを、人文学はどう批判的に問い直せるのかを、デジタル・ヒューマニティーズを考える出発点としています。
