千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第28章 パトモス島
第8話 和音
──ヤオはあんまり、仰々しいのは、好きじゃないから。
アミュテュスはじめ母と連れ立って歩いていたが、脚が、頭が、重くなっていった。のろのろとホテルに続く坂道を上った。母は娘の気だるい姿を見慣れていたので、自分は自分で別れの余韻を胸に響かせて静かに歩いた。
──こんなことなら、私が舟に一回乗り込んでもよかったのよ。そっけないと思われたかしら。でも、私がそういう人だってこと、ヤオに、伝わってないはずない……。
青年が桟橋に上がってきてくれることを、貴婦人への服従の表現として求めていたのだった。でももしかしたら、彼女の傲慢さを改めようと、暗黙の要求を無視したとも取れる。
──船からも、手紙を出してくれるかしら。向こうの港とか。
波止場に売っているポストカードの、ありふれた風景画を思い出した。ヤオならばそういう、無難な選択をしそうだ。
──でも、私はどこに手紙を出せばいいの? 彼は、いつ受け取るの?
立ち止まった。ヤオの連絡先を、聞いてない……。
──ウィスターに出すついでに、一緒に出せばいいわよね? 『演習林のヤオ』とだけ書いても、だめでしょうし。
アミュテュスは胸をどきどきさせながら、手紙を出して、相手が読み、戻ってくるまでの日数を往復させてみた。一ヶ月かかると思っていいだろう。知り合っていた日数と比較しても、手紙の動く空白の時間があまりに多いだけに、気持ちが間延びしていくようだ。
母親は、娘があまりに落ち込んで、街の中で茶色く見えるので、歩みを戻して並んだ。
「アミュ、ウィスターは、またすぐ遊びにくるわ」
──ウィスターは? ヤオは、あっさり振られたんだから、きれいになかったことにしろって言うの?
アミュテュスは、子供を無くした時に、ひっそりと、誰もが、結婚と子供のことを話題から消したのを思い出した。他人の目から見ても、ヤオは芸術家の相手ではなかったのだ。異国人であり、森の人だ。田舎の男との遠距離の交流を成立させる前に、周りを納得させねばならないのだ。ヤオに手紙を出せばいいと思っているほどの執着は、すでに濡れた紙のように無益になってしまった。どんなに強い言葉を乗せても、インクはそばから溶けていき、力を加えるほど、紙は崩れていくのだ。
きっと母親は、娘の気の済むように、手紙の執筆に付き合ってくれるだろう。しかし他人を介した恋文に、どれだけこころを曝け出せるだろうか。
まずはヤオに言いたいと思っていた、文通の約束をするべき理由や、そう思うに至った熱意を、書かなければいけない。ヤオからだって、それなりに意味のある返事を書いてほしいから。
──でも、きっと、言葉は足りないわ。
なぜなら、手紙を書く目的は、「わかった、じゃあ明日、すぐに会いにいくよ」と言わせたいからだった。
道端で座り込みそうなのを励まして、部屋に戻った。一人きりになり、襲いかかってくる後悔に没頭するために。海の底のような部屋の壁には、大小、形も様々な弦楽器が掛かっていた。一丁で家が立つほどの高価なものばかりだった。
ヤオのくれた粗末なウクレレもそこにあった。くれたかどうか、はっきりとはわからないけれど、使うままにさせてくれたものだ。取り回しやすいために、好んで使われ、楽師に魂を吹き込まれ、他の楽器と遜色ないほどに深みができていた。しかし、元の持ち主が貧しいために、慎ましさが見えない蜘蛛の巣のように覆っていた。
庭師が少ない持ち物から与えてくれただけに、施された、そのこと自体が、大層がめつく苦々しくなった──ヤオにはアミュテュスからの関心こそが大いなる報酬だったとして、彼女にとって生まれながらに空気と同じほどに保証されたものを、なんと出し惜しみしたことだろう──立っていられなくなった。
ヤオは彼に許される限り、抜け目なく婦人に近づいているうちに、その老年のほうの観察眼でもって、冷静に判断したのかもしれない。彼女は、口から喋らないだけに、周りの声だって楽器で受け止めてこころに届きはしないのだと。ちょっと気を許したとたん、男性を裸足で歩かせるような、救いようのない自惚れなのだと……。
──そんなの、ずるい。じゃあ、もっとわかりやすく言ってくれって、一日に少しでも、二人で話そうって、言ってくれたら、よかったじゃない。
──ヤオと──もっと──二人きりに──なりたかった。自白が胸を貫くと、崩れた。無感情を装っていたわりに、ウィスター医院での出会いの臥に、ヤオが何を着ていたかまでしっかり思い出せる。
──ヤオは木がざわめくと必ず顔を上げて、一秒も無駄にしたくないようにじっと見ているの……私も……そう、私も彼の世界に入って、ヤオに見つめられる木の気持ちが、知りたかった。
貪るように記憶をかき集め、張り合わせ、縋りついた。
ベッドに突っ伏し、あまりに咽び泣いたので、とうとう彼女の様子を見に来たらしい母親にも、この別れが辛すぎたことを見せつけて、そんなに泣くなら、なにかしらひと肌脱いであげる、と言わせようと、枕を抱いて、いっそうおいおいと泣いた。
ついには、そのひどい、こころの破れを露わにした泣き顔と、びしゃびしゃに濡れた枕を見てもらい、「こんなに泣いて」と同情を買い、髪を撫でてもらうために、涙どころか鼻水やよだれまで糸を引く枕から顔を上げて、家人のいるべきをほうを見た。そこにはヤオがいた。
アミュテュスの涙はすぐさま止まった。ヤオは、悲しいものを見たときのような、深い目をしてはおらず、明るい顔で、つい今しがた帰り着いて、その熱がまだ身体に残って溌剌としていた。濃い潮の匂いも引き連れていたが、アミュテュスの詰まった鼻腔には届きようもない。
「ただいま」
ヤオが言った。
アミュテュスは、また枕で顔を隠した。
──どういうこと? 忘れ物?
ヤオは立ち上がり、壁に掛かったウクレレを取ると、またアミュテュスの傍に座って、何かしらのコードを押さえた。でたらめな和音の上から声を重ねて、「た、だ、い、ま」とアミュテュスの真似をしようとした。
──ウクレレを、取り返しに来たの?
顔を拭き、涙と汗で濡れた手のひらで、髪を撫でつけて起き上がった。ヤオはアミュテュスにウクレレを差し出した。
おとなしく構え、鼻をすすりながらなめらかにアルペジオを弾いた。言いたいことは、すぐに一つに結び合わさった。
──もう、行かないで。
こころに指は追いつかなかった。
楽師はウクレレを脇に置くと、ヤオの長い腿に覆い被さって、また泣いた。
第28章 パトモス島 終わり。第29章につづく






