千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第25章 イツダテ城
第6話 絵本
アミュテュスは身の回りの全ての境界線を失ったように怒り狂い、唸り、からだの内と外をひっくり返すかのように嗚咽し、吐き続け、膝の力を失い、地に五体を投げ出した。
ヤオはなんとか彼女を支えようと屈んだ。膝に吐瀉物がついた。ロー・ジは二人を見下ろし、鼻からため息をついた。
アミュテュスは、ヤオの手さえ砕かんばかりに限り払いのけて、嘆きと闘った。ヤオはこのまま楽師が憤死するのではないかと思った。
「彼女の部屋があるが」
もっと近い作業室に放り込んだってよかったが、ロー・ジにも仕事が山積みだったので、思案する手間を省くために習慣に従った……というのは彼の中での建前で、ふと、元妻が連れて来た男に、彼女の部屋を知っていると伝えてみるのはどうだろうと思ったのだった。
アミュテュスはヤオに支えられながらも、発作的に叫び、何度も倒れ込み、床を叩き、吐き、また立ち上がって泣き続けた。視界には王宮の全ての色が糸を引いて混ざり合い、先ほど見た子供の、水中に踊る髪の毛が絡みついた。
ロー・ジはたびたび振り返り、ヤオが元妻を引きずって運ぶのを眺めた。ヴィア・ドロローサで、兵士たちが、メシアの担ぐべき横木を、見物人の一人に押し付けた場面は、こんな地獄絵図だったのだろうかと。まあ、横木は暴れたり吐いたりはしないんだがな、と。
アミュテュスは、「あんたに案内されなくても部屋に戻れる」と「どうしてこんなことができるの」が、頭の中で嵐になって、感情同士が互いを蹴落とし合い、一体どうやればこころが整列するのかわからなくなった。ようやく、澱んではいるが懐かしい部屋の匂いを嗅いだ。床の上に転がり込んでまた泣き、玄関のそこらじゅうを打ち叩き、蹴り飛ばし、敷物をかきむしった。
「何か、食べ物をくれませんか」
アミュテュスを部屋に入れて一度戸を閉め、早々に立ち去ろうとするロー・ジに、ヤオが言った。
「果物とか、牛乳とか」
「確かに、あいつは食わないな。君のようには、土は」
ロー・ジは、ヤオが国境での会談にいたことを覚えていた。
「あと、水をください」
「水なら、部屋に引いてある。ぬるい湯も出る」
「それから」
「それから、こうは思わないのか? この場であんたは俺らに要求していいものか。忘れ去られるっていうのが、この場合、あんたらの命を救うかもしれない」
ヤオは、扉が閉まっていることをちらりと確かめ、それでもアミュテュスの鳴き声は漏れてくるので、こちらの声も聞こえないように、静かに言う。
「さっきの子供は、アミュテュスの子供ですか」
──やれやれ、質問を厳選した結果がそれか。
ロー・ジは、感情を顔に出しすぎると幼稚になってしまうので、自分を押さえつけるのに苦労した。失望したのではなかった。勝ち誇ったのだった。
「私たちの子だ。だが、もう会えると思わないでもらいたい」
ヤオは「わかりました」とも「どうしてそんなことができるんだ」とも言えなかった。今は何より、アミュテュスを長いこと一人きりにできなかった。今にも、窓を突き破って外に飛び出すかもしれないのだ。
「食べ物を、お願いします。彼女に」
ヤオは音もなく、部屋に入った。
アミュテュスの「部屋」と言われたが、そこはもはや家だった。外扉の先に廊下があり、廊下だけでヤオの家の一階以上の広さがあった。応接間があり、音楽室があり、衣装部屋があり、ライブラリーがあり、風呂場に寝室があった。ただ、調理場だけがなかった。
音楽室には、木目の見えるように塗装された飴色のピアノがあり、さまざまな形のギターが掛けてあった。どれも芸術作品のように美しく、木製だが黄金のように輝いていた。レモン色の布が張られたカウチソファと、ソファと意匠を揃えたコーヒーテーブルがある他は、家具がなかった。
テーブルの上には、場違いに幼なげなネズミのぬいぐるみが置いてあった。その下には楽譜があった。ペーパーウェイトがわりなのかもしれない。アミュテュスは部屋の床に倒れていた。
足についた汚れを軽く落とし、クッションや掛け物を探してきて、彼女を包み、頭の下にクッションを入れてあげた。
息をついて、カウチに腰をかけると、硬すぎず、柔らかすぎず、腰や肩をぴったりと支えた。
アミュテュスは動かなくなった。ヤオはサリーの死を思い出して胸が締め付けられ、椅子に預けた背をまた離した。顔を覗き込むと、目は開いていたが、どこも見ていなくて、ヤオを見ることもなかったが、生きていた。
──大丈夫って言って、抱きしめてあげるといいわ──
ウィスターの言葉が脈絡なく蘇った。無言のアミュテュスに付き合い続けてだいぶ熟練を見たので、今はその時ではないはずだった。この人が放っておいて欲しい時くらい、わかっているさ……。ロー・ジが引っ掻いていった自尊心を慰めながら、そばにタオルを置いてあげるだけにとどめて、彼女の顔に涙と汗ではりついた、髪の毛をよけることさえしなかった。食べ物は届く気配がない。くやしいが、誰も来ないことに、やはり安心してしまう。
ライブラリーに行ってみた。文字の読めない楽師の本に興味があった。楽譜がほとんどだった。他の本は、おそらく棚を埋めるための飾りのような本なのだろう。刺さっていることに意味があると言わんばかりに輝いていた。読まれた形跡はほとんどなかったが、開くと、通常の本よりも文字が何倍も大きく、内容は【書物】だった。本棚の下の段の片隅には、装飾的でない本もあった。棚の調和を損ねないように寄せられていた。何冊かの本は、文字を読むことを得意としない人が、それでもどのようにしたら読みやすくなるかとか、書けるようになるか、と言うようなことや、文字のトレーニングの問題集だった。
──でもちょっと待てよ、文字が読めないなら、この本に書いてあることは、どうやってわかるというのだろう……そうか、誰かに助けてもらえばいいのか。
それらの本の横には、薄く、大きな本があった。ヤオは、引き出す前から、そういった本がどういうものかをわかっていた。絵本だ。
表紙には、とても機能的とは言えない長い尾を持った鶏や、巨大な嘴をした鳥がこちらをじっと見つめる絵が配されていた。そのインパクトに負けない大きさと太さで、「へんなとり」とタイトルがつけられていた。
中には、タイトルのとおり、世界中の変な鳥が、大人が見ても息を飲むほどの細密さで描かれ、大判の絵本にさえ収まるのが窮屈そうであった。さらには、変な鳥たちをもっと変にすべく、クレヨンで羽や目を描き足そうという、つたない合作の痕跡が、全ページを埋めていた。
つづく






