千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第25章 イツダテ城
第5話 発狂
下水処理施設で薄く漂っていた下水の臭いは、湿り気のある塩素の臭いに変わった。
二人はくすんだ白いタイル張りの狭い通路を進んだ。光ダクトが届いていたが、長い間ダクトの清掃がされていないようで、採光板の中には死んだ虫が溜まって斑点模様になり、薄汚れていた。天井はヤオの頭に届くほど低く、真四角の通路がずっと続き、通路の両端には水がしみて黒ずんでいた。
アミュテュスは来た方角と照らし合わせて、今は城のこのあたりにいるのだろうと目星をつけていたが、それにしても予想になかった空間だった。牢獄や拷問部屋に通じていても不思議ではない。もしこの通路が先すぼまりになっていて、やってきた扉も通せんぼされてしまったら……下水処理施設の職員すら、不気味に腹黒く思えてくる。
通路の突き当りには、水色に塗られた鉄の扉があった。鍵穴もあった。ヤオはドアノブに手をかける前に、不安を打ち消すため、軽く息をついた。手をかけ、ノブをひねり、押した。
──鍵が、かけられている……?
落胆が込み上げ、息が詰まりそうになった。しかし扉は積年の埃や水垢で、またその反対側の壁とは一体に見えるように塗装がされていたため、封がされたようになっていただけだった。体重をかけて押すと、めりめりと音をたてて開いた。
──暗い。
空間が、壁も床も、暗い色で塗り固められているのだった。黒ではなく、群青だ。廊下は不自然なほど天井が高い。廊下、というより、湾曲して先の見えない空間で、照明はごく絞られているが、見えない先に、巨大に発光するものがあるようだった。壁に当たった光が揺れている。大量の水があるらしい。水の音、しかもまさに生き物が飛び込んだ音がした。水音に混ざって、子供の話すような高い声がする。
アミュテュスがヤオの前に出て、壁に手をつきながら進んでいった。彼女の体が、揺れる光にさらされるところまで進んで、立ち止まった。じっと動く気配がない。ヤオも追いついて、アミュテュスの肩の向こうを覗き込んだ。
窓、ではなく、ガラスの壁だった。湾曲した大きなガラス壁があり、向こうには水が満たされていて、水槽の中には生き物の気配があった。
向こうもこちらを見ていた。
しかし、ヤオとアミュテュスほどには、気に掛けたふうではなかった。観察されることに慣れているためであり、水の中に身を躍らせる愉しさが勝ったためでもあった。
より楽しい方に身を任せる、その性質のままに、幼かった。幼くありながら、長かった。赤ん坊の、ソーセージをつなげたような肢体が、そのまま筋も骨も強くならずに伸びたようだった。
自動人形かとも思った。水の色の中で青ざめ、活発な泳ぎのわりには生気を感じなかった。節々や頭部には金属や樹脂がさまざまな形をしてくっつき、あるいは穴が空いていて、頭には、髪の毛がまばらに生えているだけだった。熱帯魚の奇異に伸びた鰭のように、髪の毛が水の中でたなびくのだった。
ヤオは驚きを分かち合う為に、アミュテュスの方を向きたかったが、できなかった。目で語ってしまうだろう。「君に、似てないか?」と。ヤオはますますそれを注視するしかなかった。ますます、目元や、頬の形など、形と言えないちょっとした輪郭が、アミュテュスと重なり合う。水の揺らぎが作り出す、次の瞬間には溶け去っていく錯覚だとしても……。
「向こうでこれと同じような環境を再現するのは不可能だ」
「あと一日で解体と、運搬はむずかしいか……」
湾曲した廊下の向こう側から、男二人の話し声が聞こえた。こちらに歩いてくるようだ。ヤオはアミュテュスの腕を引き、先ほどの通路に戻ろうとした。
=ダプネー! =
水槽の上から、女性の声がした。声は拡声されて、ノイズ混じりに響いた。
水の中のものが、水の抵抗の中でゆっくり上を向いた。アミュテュスはヤオの手を払って、一層、水槽に張り付いた。
* * *
ダプネーは、呼びかけに気がついていたが、大人が四人も水槽に集まってこちらを見上げていること、その中でも見覚えのない女性が、一番に一所懸命に見つめてくることが気になった。
=ダプネー、上がって=
──お父さん、その人は、あたらしい、会社の人?
ダプネーが水の中で、四人の大人の、一人の男性の方を見たり、女性の方を見たりしたので、男性は、それで侵入者に気がついたのか、女性の方に近づいて行った。そこまででダプネーは苦しくなったので、水から上がることにした。
水から上がると、サイレンが響いていた。
──拡声器が故障したのかな?
いや、違う。人の声だ。叫び声、唸り声、鳴き声、その全部だ。赤ん坊よりもずっとうるさい。大人の、大きな肺から出る声だからだ。当然、プールの上の小さな子供たちも、子供たちの「お母さん」も、皆、身じろぎせずにそっちを見た。プール越しの水の下を。
さっきの女の人だ。水のむこうで、女の人は叫び、「お父さん」を跳ね飛ばし、水槽を叩き、言葉のない声を喚き続ける。
プールの上には、「お母さん」以外にも、何人も大人がやってきて、子供たちを抱え、奥の部屋に連れて行った。女の人の声は、ドアの向こうに押しやられる前、れろれろと言って、液状のものが床を叩いた気がした。ほかの水音に紛れて、確かにはわからなかったが。
つづく






