千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第25章 イツダテ城
第3話 潜入
イツダテ城下町は、イツダテ城を頂点とした山に造られた街だ。ゆるく坂道になった広い大通りを登っていくと、やがては城門に辿り着くのだが、アミュテュスは街の東に向かうオレンジ色のトラムにひょいと飛び乗った。文盲なので、トラムに振られた路線番号を読み間違っては乗り換えを繰り返し、クレープの露天で腹ごなしをし、やがて静かな住宅街にたどり着くと、納得して歩き出した。
彼女は旅装だったが、くすんだレモン色で裾がスカートのジャンプスーツを着ていて、下にはレギンスとサンダルを履いていた。貴重品を入れたバッグも形が洗練されており、ヤオにしてみれば街着と大差なかった。イツダテ城下町は想像していたようなおどろおどろしさはなかったが、道を行く人は少なく、商店は暗く、がらんとしており、街の歴史ある風格が急速に衰退したような空気が漂っていた。張りぼての中に入り込んだようだった。しかしヤオにとっては、かえって異国情緒もあいまって現実感が薄くなり、アミュテュスとふたりで夢の街に迷い込んだ気持ちがした。彼女がろくに振り向きもせずに猛然と進む背中を追いかける中にも、こころがときめいた。
今まで恋する女性と都会を歩いたことがなかった。婦人の細い肩の曲線が、堅牢な街の中に吹いていく風のように、しなやかにも、したたかにも感じられるのだった。アミュテュスの髪も腕も、サンダルの後ろに見える足首の腱も、これまでの行程のどこより生き生きしていた。ここが彼女の故郷であり、彼女は街の女なのだった。
アミュテュスは記憶を頼りに住宅街を歩いた。今や、イツダテ城下町の建つ小山の、中腹よりもさらに高いところに来ていた。橙色のイツダテ城壁が左に臨めるほど近づいていた。城の敷地内から、煙が絶えず上り続けている。アミュテュスが身を寄せていた貴族の住宅街までをも霞ませるほどに充満している。居候していたバジリオはさぞ、気を揉んでいることだろう。
アミュテュス達がたどり着いたのは、いちだんとひっそりとした場所だった。豪邸が立ち並ぶ高級住宅街とは趣が変わって、家々は小ぶりで、敷地の周りには塀が囲んでおり、小さな庭には草木が植えられている。イツダテ城下町としては、北東のヰェナダー光も、午後の日も入らない、ひときわ青い地区であり、住民たちも隠遁生活を送る者が多く、地区全体が苔の中に埋もれているようだ。
何かを探すように歩き回っていたアミュテュスは、あるところで壁を向いて立ち止まった。
──こんなに、小さかったかしら。
目当てにしていた塀を見つけたのだが、腰あたりまでの高さを想定していたのが、膝ほどの、塀というよりは段で、最近塗り替えたのか、白くてかてかしていた。向こう側の生垣が飛び出すほどに成長していて、足がかりにできそうな場所はとても小さい。生垣の向こうに家屋があるが、人の気配は感じられない。
ヤオは、ここに住む人に手引きを頼むのかしらと、用事を言いつけられるのを待った。楽師はちらりとヤオを見やったが、すぐに、これから待ち受ける冒険にふさわしい者だと見てとって、またすぐ向き直った。
白い段に足をかけた。さらに隣の家の、もっと高い石塀を目指して、生垣を腕で押しやり、強引に隣の塀によじ登った。少しの間、周囲に人がいれば大注目を浴びるほど、高々と塀の上に立ち上がった。すぐに塀を伝って家と家との間に消えた。
ヤオは、騒々しい音を立てた生垣の向こうに、不審に思った人が顔を覗かせていないかを確かめた。楽師は庭木の向こうでヤオを振り返ったが、また先を目指して進んだ。青年は白い段に足を掛けるまでもなく、高い石塀を軽々と登って彼女を追いかけた。アミュテュスに比べて、彼の通る後は猫のように静かであった。
アミュテュスは、訪れた地区の敷地が石塀で囲まれていつつ、狭小であるが故に塀同士がつながり、城の忘れ去られた裏口と、人の目を避けて行き来することができるという、少女の頃に常用していた方法を使うことにしたのだった。
しかし、白い塀、もとい段に足をかけた時に胸をよぎった通り、かつてのようにはいかなかった。子供の目に道同然に見えていた経路は、どう考えたらそこを通れると思ったのだろうというほど、曖昧で、脆く、危険な道に変貌していた。
石塀が行き当たるところで、さらに高い塀に登って渡り、登っては渡りを繰り返し、階段を上るように高みへと進んでいった。途中には、塀と塀の間が大人でも思いきったひと跨ぎが必要なほど開いていたり、地面との距離が背丈の何倍もあって目が回りそうなところや、手入れされずに脆くなった場所、木が張り出して道を塞ぐ場所、持ち主の気まぐれで塀がフェンスになり、細いフェンスに足をかけながら、上の木の枝に掴まって、横向きに渡っていかなければいけない所があった。腕が痺れ、枝は今にも折れそうで、腹の底から後悔が沸いてきた。後ろから付いて来ているはずのヤオを振り向いた。大の大人にこんなことをさせて、アミュテュスなりに申し訳なくなったのだ。
ところが、後ろにヤオはいなかった。パニックに襲われた。やはりこんな、子供じみて無謀なことにつきあう人なんていない……引き返して、他の道を探そう。今まで辿ってきた行程を戻るとを思うとうんざりした。
そのとき、顔の横の枝にサンダルのつま先が降りてきて、軽くトントンと叩いた。足は土埃が第二の皮膚と言わんばかりに、爪はおろか、指紋にさえ細かい砂が入り込んでいた。指や甲には毛がしっかりと生えている。
「こっちにつかまった方が、いいよ」
見上げると、ヤオが木に登って、見下ろしていた。重力なんてないかのように、あっという間に向こうまで渡っていき、先の様子を伺いに、一足早く進んでいった。アミュテュスはフェンスを渡り終えると、ハンカチを額にあて、香木の扇で顔をあおぎ、一息ついて周りを見た。だいぶ高いところに来て、イツダテ城がさらに迫り、のしかかるようであった。
確かこの先には下水処理施設があり、そこの塀を渡れば裏口に辿り着けるはずだ。
かつて、すべての邪悪を幼さが包み隠せるほどに、若かった元夫……当時だって奴が未来の夫になると思ってはいなかったが……を、この冒険に誘ったことがあった。城の裏口を出て、雑然と積まれた木箱を登って街に出ようと誘ったが、なんだかんだと理由をつけて、結局来なかった。年下の彼に断られたことでむしろ、案外大人なのねと見直したものだった。
──時が経って、私にも分別がつけば、塀の上を歩きたいなんて、思わなくなるほど大人になれると思っていたわ。
アミュテュスは音楽芸術には卓越していたが、もちろん人間であることに変わりはない。恋人や夫の存在で、より完全になると思っていた時代があった。儚い結婚生活の中で、何かにつけて芸術家は科学者よりも下等なのだと植え付けられた。愛を求めても、求めること自体が卑しまれた。
──こういう石塀に座って、足をぶらぶらさせながら、一緒にイツダテの街を見下ろしたら、素敵な気分だろうとか、そういう時間を積み重ねるのが、いつか何かしらになるんだと、思っていたわ。でもあの男の、いのちを作り出したいとかいう願いに比べたら、人生が与えてくれるものをただ楽しみたいなんて、生きてないことに等しいでしょうね……私だって、あいつの風情のなさを、蔑んでいなかったかといえば、嘘になるんだから。
記憶の痛みを打ち壊すように石塀を踵でぽんと叩いた。感じた硬さで、ずいぶんと内面に集中していたと気がついて、顔を上げた。ヤオの進んでいった方を見ると、すでに戻ってきていて、彼女の休まるのを待っていた。
「疲れた?」
アミュテュスは首を振った。ヤオは胸ポケットから丸めたハンカチを出した。開くとドライデーツが四つ入っていた。貴婦人に申し訳なさそうに、二つをおずおずとアミュテュスに差し出した。
そのドライデーツはいつからポケットに入っていたのか、ハンカチは洗ってあったのか、ヤオの手は拭いたのか、頭をかすめたのは一瞬のことだった。口の中が痛くなるほどに急激に唾液が出てきて、デーツを受け取った。ヤオは塀にまたがって、足をぶらぶらさせてデーツにかじりついた。そして目を上げて街を見晴らし、ああ、きれいだな、と声に出さなくてもわかるくらいに無防備ないい顔をした。
アミュテュスはさっと目を背けて、また街を見下ろした。口どころか目も痛くなって、とっくに汗はひいているのに、また顔を扇いだ。
元気づいた彼女が立ち上がるのを、ヤオは心配そうに眺めた。
──あら、わたしったら、そんなに暗くなっていたかしら。
「アミュちゃん、どうやら、ここからが正念場だ」
青年は楽師がもう一踏ん張りできる体力が残っているかを心配したのだった。
──まだ、あるのね、正念場が。
つづく






