千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第31章 いのちの水
第5話 綺麗
ロー・ジが思わず口にした名は、一度は妻に思ったことのある女性のものだった。出会った歳の頃の姿だった。真横から指す海の光は、アミュテュスによく似合っていたレモン色をしていた。街の淡さで郷愁が高められていた。全てが少女の上に幻影を形作った。
それは一瞬のうちに立ち上がった印象にすぎず、視野が広がっていくとともに、褪せ、見るも貧相な彼の娘であるダプネーになっていった。
──もう、それ以上はやめてくれ。
ロー・ジは崩れて縮んでいく少女の容貌に願った。
「アミュテュスなら」
少女は、数ヶ月ぶりに異国の地で父親に会えたことに、大した不思議を感じないまま、まだ視界に入らない浜辺の方を見た。
ロー・ジは急な緊張を強いられた。さっきから風に乗って流れているギター曲は、どこかのカフェから流れてくるのだと思っていた。淀みのない演奏は、浜辺から流れていた。少し進んだ。見えると思った女性より先に、青年の頭が見えたので、一歩引いた。
「アミュテュスが、お母さんて本当?」
しばらく会わないうちに、ダプネーの口調がしっかりしていた。内容に驚きはしなかった。これまでも、娘のぎょろついた瞳の中に、「どうして」と問う光が宿っていた。言葉に形作るだけの語彙や、経験がないだけだった。
ロー・ジは来た道を引き返した。ダプネーもついて行った。ダプネーは、父には目的地がわかっている、父は何でも知っていると思っていた。ロー・ジは、みすぼらしい道連れを得ただけで、異国で許された空間が二倍にも三倍にもなった気がした。
「そうだな。君を産んだのは、彼女だ」
「でも、ヤオがアミュテュスと一緒にいるのは」
「そうみたいだな」
「ヤオを知ってる?」
ダプネーはヤオを嫌いなわけではなさそうだ。それどころか、彼を知っているということが、娘の喜びであり誇りになっているのだ。
「まあな」
「会わないの」
「ヤオと、アミュテュスは、結婚しているのか」
「けっこん?」
ダプネーが生きた小さな社会の中では、結婚がまだ、意味を持っていないようだった。
「お父さんは、活海に入った?」
「あれが、活海ってやつか」
「ヤオのヤケドが、三日で治ったよ」
「それはすごいな」
ロー・ジは、ヤオの火傷の重さを見ていなかったので、ごく軽いものが治ったのだろうと思った。
「私たちも、毎日入ってる」
「楽しそうだな」
連なったソーセージのようだったダプネーは、確かに見違えるほど血色が良くなった。ただたんに海辺での外遊びがよかったんだろう。
「いのちの水なんだって」
ロー・ジは永遠の命の研究をしていたのだから、もちろん命の水は知っていた。しかし、もっと隠れた場所の小さい泉から、みみっちく湧き出しているものと思っていた。出るそばから指先を掠めて地面に染み込んでいき、雫に舌をつけることくらいしか許されないのだ。
「あれ全部、命の水か」
「そうなの。全部!」
娘はやっと、最新のお気に入りが父の気を引いたので嬉しそうだ。
「あれだけあるなら」
浜辺を離れてなお、視界をうめるほどの光の海を、海の中の海を見た。本当は何を言いたいか考えた。あれだけあるなら、何だと言うのだろう。あれだけあれば何だってできるし、あれだけあれば、もう何をしたって無駄な気がする。
構築し、支え、また支えられてもいた永遠の命についての仮説が、海に洗われて忘れてもいいと思いそうになった。命の水が、あれだけあるなら──
「命の木の実があっても、不思議じゃないな」
ふわりと心を掠めた無力感を自嘲するように口をゆがめた。これだけ命の水があっても、命の木の実までは、さすがに何かの象徴だろう。
「いのちの木の実は、宮殿になってる」
ロー・ジは娘を見た。まるでダプネーが、もうすでに実を目にしたことがあるような口ぶりだったから。
「あるのか」
「うん」
「食べたのか」
ダプネーは「けっこん」のときのようにきょとんとした。
「食べれるの?」
実を見たことがあるが、観賞用であると思っている口調だった。ロー・ジは、【書物】に書かれている命の実についての箇所を思い出した。
「食べられるな。食べると、病が癒されて、永遠の命が得られる」
ロー・ジはそこまで口にすると、やはり、そんなものが、人間の手に届くところに、簡単になっているわけがないよな、とも思うのだった。
「永遠のいのちって、どんなかな」
ダプネーはごくさりげなく言った。
今まで支配し、操るだけだった娘が、彼女なりの素朴な質問を返し、まともな会話が成立するので、思わずにいられなかった。楽しい、と。
「どんなだと思う?」
──ダプネー!
浜の方から、青年の声が娘を呼んだ。ダプネーはさっと振り返った。男の姿は、まだ見えない。
「きっと、きれいになるの!」
ダプネーは叫んで、声がした方に走り出した。浜に降りていく階段の上に立ち、下にいるであろう人に呼びかけた。
「ヤオ! いのちの木の実を見に行こう!」
「宮殿に行くってこと?」
「そう!」
ヤオは階段を途中まで上がって、市街地の方を見た。ダプネーが誰かと話をしていたようだったが、それらしい人はいない。ダプネーも、あれ? と言う顔で、路地を見た。
「誰かいた?」
「お父さんが」
「お父さん?」
ヤオは、子供に語りかけ青年には姿を消した者について、収監されているはずのダプネーの実父ではなく、もっと神秘的なことが、幼子に起こったのかと思った。だからいのちの木の実のことを、突然に口にしたのだろうか。
ヤオは水辺の子供達を眺めた。まだ遊びを続けている。アミュテュスが振り向いた。ダプネーはヤオの手を市街地へと引っぱる。
ヤオはアミュテュスに向かって言う。
「宮殿まで行ってくるよ!」
アミュテュスが、何で彼らが今宮殿に行くのかを合点する前に、ヤオは手を振りながらダプネーに引っ張られていなくなってしまった。
アミュテュスは、ダプネーがヤオを気に入っているのを知っていた。彼らが消えた方を長く見た。
「そろそろ、私たちも戻りましょうか」
保養所の看護師がアミュテュスに近づいてきた。海風が強くなってきた。今日の治療はそろそろ引き上げどきだ。
第31章 いのちの水 終わり。第32章につづく






