千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第30章 カルメル大火
第8話 突破
建物の外から呼ぶ声がした。
「殿下ぁー!」
「無事かー!」
青年が何よりも望む、頼もしい声だった。
「子供が! いました!」
「今行く!」
声のした方には炎の壁があった。
ヤオはフェリックスが回り込んでくるだろうと思い、あたりを見回した。
しかし王は真っ直ぐ炎を潜り抜けて突進し、プールサイドに足をかけ、そのまま飛び込んできた。着地してごろごろと受け身をとって、髪や服に点いた火を消した。
ヤオは王が立ち上がるのを助けながら、腕に燻った炎を落とそうと、軽くはたいた。しかしそこには肉の手応えがなく、打たれるままに、王の手首がぼろりと落ちた。ヤオは動揺のあまり、落ちた手を拾い上げ、王を見た。王は手を落としたというのに、不気味に笑みを浮かべて言った。
「うまく行ったようだ」
青年はその顔を見てまたはっとした。フェリックスの肌は肌のようでそうではなかった。もう一枚、膜のような、薄い皮のようなものが張り付いていた。王の肌が爛れるとそうなるのかしら。ヤオが拾った王の手は、みるみる白く雪のようになり崩れて行った。
ヤオの戸惑った顔をみて、フェリックスは自身の頬に触り、剥がれたものをまるで検分するように見た。
「まだ、見た目に凝るまでには、達してないな」
フェリックスは僅かにからだを引きずるように子供達に近づき、まだ少し離れたところで立ち止まった。子供達が王の姿を見て怯え、また子供達の姿が見るも哀れだったから。しかし感情は見せずにけろりと言った。
「五人か。歩ける者は?」
ダプネーと、もう一人の年長の少年が立ち上がった。二人とも、どうやって五体を支えているのかというほどに、枯れ木のように痩せ細っていた。
「殿下、僕と一緒に来た、仲間が……」
ヤオは、仲間が倒れているはずの方を示した。
「おーい!」
だがやはり、声はなかった。
フェリックスは周囲の火のまわり具合を見て、子供達からわずかに離れたところに、ヤオを連れて行った。
「殿下、手は」
「ツァラアトだ。タンクの中に入ってたのを、浴びた」
ヤオの恐怖と不安で呼吸が浅くなった。
「内臓や脳をやられるわけにいかんので、左手にツァラアトを『転送』してる……」
王は毛羽立って見える頬をかいた。
「こっちは私の編み出した菌殻だ。今、私のからだは、守る菌と、壊す菌とがせめぎ合って、お祭り騒ぎだ」
厳密にいえば、菌がせめぎ合ってるなんて、人体に普段から起こっていることではあるが……王はどこまで講釈を垂れるべきかちょっと考え込んでしまった。
「ではそのうち」
ヤオが言った。
「そのうち」
王は左腕を痒そうに振った。また一掴みの白いものが落ちた。
「王体にツァラアトが回るのは早いからな……。これから言うことを、聞いてくれ」
王は大袈裟に咳払いをした。ヤオは菌が肺に回ったのかと怯えて、みるみる泣きそうになった。青年をからかうのはほどほどにしなければならない。王は優しく、しかし他に道はないと伝えるために、厳しく言った。
「これから君は、走るんだ。何があっても。まだ動けるあの二人の子供にも、なんとしても走り切ってもらわないといけない……そのうち、私のからだは、崩れて、なくなる。それでも、最後まで力を出す。絶対に。だから、君が諦めちゃだめなんだ。わかったね」
ヤオは「はい」と言えなかった。王が崩れる。進む道を指し示す者がなくなる、その一点が起こって欲しくないために。じっと目を逸らして、プールの底の瓦礫を見つめた。フェリックスはヤオの頭に右手を乗せた。熱い。そこから降りてくるように、ヤオの胸が暖かくなった。ヤオが王に今になっても求めているのは、そんなことであった。彼はまだ、大人になどなりたくなかったのだ。
「よし、では、行くか」
王は子供達の方に呼びかけた。
* * *
ヤオ達はプールから上がった。炎と煙は依然として燃え盛り、退路を消していた。
フェリックスは、二人の歩ける子供の、半分が機械でできたような歪な頭に手を乗せて、按手をした。
「【主】の光に、留まるように」
子供達は、毛布のような菌糸体に包まれた。それはツァラアト……栄化体を絶望的なまでに破壊するが、幼子には無力な菌であった。王は自らのからだを「菌殻」に作り替え、それをまたツァラアトに喰わせることで、彼女達を熱から守る厚い膜を作り出したのだった。フェリックスは二人の子供を抱き、ヤオに一人の子供を任せた。王は毅然と胸を張った。
「では、君たち、各々のいのちを、我々の父に預けられよ。先の聖徒には、これよりも絶望的な業火の中を、生きたまま歩いた者もある。知ってたか? たとえ、死の陰の谷を歩むとも、我々は恐れない。進む道は、あっちだ」
フェリックスはぴったりと、さきほど飛び込んできた方を指した。今にも崩れそうな白い右手の先には、炎の壁があった。
「ヤオ、しんがりは君に命じる。私の背は預けたぞ。皆のもの、私に続け!」
フェリックスは胸元と背中の子供達も菌膜で包み、炎の中に飛び込んで行った。少年少女はそれに続いた。ヤオも皆の背を追いかけた。そこからはずっと、子供達とフェリックスの背中を見守ることだけを考えた。炎のことも、煙のことも、燃え落ちた瓦礫に足を取られそうになる恐怖も、息をするのも忘れて、走り続けた。
王はツァラアトと炎が徐々にからだを蝕んでいくのを、こころ、いのちを総動員して、ただ走り続けられるためだけのものに自分を作り替えながら進んでいった。前進する力が尽きるころ、後ろを走る二人の子供に、小さな子供達を任せた。少年少女は、これまで持ちようもなかった力と知と勇気に包まれて、走り続けることができた。
* * *
目を覚ました時も、ヤオはうつ伏せで、包帯に包まれていた。からだはとてつもなく大きな力でゆっくりと、絶えず角度を変えている。船の上、それもとても大きな船の上にいるのだ。
明るい。高ブリム帯の有り余るほどの明るさが、室内でも感じられた。一年余りを日の少ない地域で過ごしてきたヤオには、胸がはち切れそうな程の懐かしさと平穏が襲ってきた。
視界の向こうにはずらりとベッドが並んで、怪我人が寝かされていた。反対側も同じような光景なのだろう。
生まれてこのかた、傷ついた人々がこんなに一度にいる光景を見たことがなかった。暴走した炎の、決して心地よくない威力を知った。呼吸に死を染み込ませてくる煙を。仲間の返事が返ってこない絶望感を。
千年王国の終わりの時には、海の砂ほどに敵対する者が現れるということは、あんな恐ろしさでは済まないということだろうか。相手を破壊しようという意思を持った勢力に、聖なる陣営の一人として立ち向かえるというのだろうか……。今、身を任せきっている安全地帯から、再び出ていける気がしなかった。
──アミュテュスに会いたい。
弱さのかけらが恋人の髪や胸に降っていくのを敗北に感じつつ、あれだけの恐怖を通過しても、こころの思い癖が、傷ついた身に留まっていることが愛おしかった。そのぶん寂しかった。
──アミュちゃんに会いたい。
すると下から、アミュテュスが速すぎる朝日のように昇ってきた。ヤオのベッドの下で寝そべっていたのだった。レモン色のワンピースを着ていたので、視界がさらに明るくなった。
青年は、素朴な自分の相手にしては強すぎる目元や、何も喋らないわりに攻撃的に結んで弛むことのない唇を、もう何度も繰り返したように、まさか、と眺めた。恋人の姿の、ヤオが望む以上の調和を見るにつけ、胸が躍り出す。「まさか、こんな喜ばしい造形があるとは」と。
アミュテュスは、ヤオのごく近くに顔を寄せ、消毒液の匂いに鼻をひくつかせた。それが「なあに?」と言うように、ヤオの言葉を待っているように見えた。
──なぜ、時々、みんな、僕のこころの言葉に反応するんだろう。何かが漏れ出しているんだろうか。そうなのか?
ヤオは意識してこころの声の音量を上げてみた。しかしアミュテュスはじっと目を合わせただけで動かない。
「今、何日だろう」
ヤオはつぶやいた。本当は日付なんてどうでもよかった。話がしたかった。恋人はギターをひょいと持ち上げ、奏でた。
{二月十四日}
ヤオは行事に疎かったが、日付を聞くと、気持ちが甘くなった。
第30章 カルメル大火 終わり。第31章につづく






