第30章 カルメル大火/第5話 合流|千年王国ファンタジー 幻想聖典エスキャトロギヤ

第5話 合流

 波の音と、潮の匂いがした。フェリックスは目が開かない前から、海水に洗われているのを感じた。

 午後の黄色い光が波に散っている。水平線の向こうに、雲ではない、灰色の煙がたなびいている。遠くに小舟も散っている。パトモス島に着いたのだ。

 動けるようになって、辺りを伺うと、波打ち際に建てられた住宅群の縁の下にいるのだとわかった。這い上がってみると、広いバルコニーは物干し場になっており、作業着や消防服が天日に干してあった。家の中を覗いてみると、生活感がなく、テーブルや椅子がたくさん置かれてがらんとしている。隊員の詰め所なのだろう。人はいない。コーヒーカップや菓子の袋が、手をつけられて途中で放り出されている。

 フェリックスは気がとがめるよりも先に、裸体に必要なものがすぐにあった幸運に、さっさと服を拝借してしまった。消防服の防火のための立ち襟や、帽子についた顔の覆いで、程よく顔を隠すことができた。何よりフェリックスは、顔も体躯も、人が人の形を思い描くと平均的にそれになる、というような、輪をかけて標準的な、黄金比と言っていい姿をしていた。だから町の人々は誰しも彼をどこかで見たことがある者として、ごく自然に属させた。あたかも栄光の王が壁を抜け、入れない場所がないように。

 港でひときわ人だかりのできているところを目指すと、ちょうど大物が捕えられ、パトモス・ハウスに連行されようとしているところだった。ロー・ジとその一派である。

 ちょっとあてが外れた気がして残念になった。ロー・ジとは一対一で刃を交える運命だと思っていたのである。燃え盛る炎の中、崩れゆく敵の牙城での一騎打ちだ。いや、自らは彼の配下に囚われ、死の菌根を植え付けられ、肉も精も徐々に蝕まれてく。アミュテュスには今まさに機械が埋め込まれようとしている。絶体絶命、というところで、ヤオが窓を蹴破って登場し、九死に一生を得るのだ。

 そうこうしているうちに、人々は野次馬を引き寄せながら城に向かって行くので、フェリックスもお家芸の図々しさで関係者の一人を装って紛れ込み、ついにはロー・ジ一派と城の上官たちが対する応接室にまで来てしまった。

 さすがにここで消防隊員は異質すぎると思ったが、イツダテ事変の深刻さと、主犯が想定外のタイミングで捕まったという急展開から、自らも騒然の演出に一役かっているらしかった。

 ロー・ジは聴取をのらりくらりとかわし、焼け出されて証拠物件もなにも所持していなかったので、しばらくすると彼を彼だと確実に証言できる者である、アミュテュスと、おまけのようなヤオがやってきた。

 ロー・ジは元妻に空威張りをかまし、頑ななまでに子供達はどうしたかを言い渋った。しかし幼子たちが崩れゆく町に取り残されている、というのはおおかた事実なようだった。

 カルメル大火では避難者が大人も子供も山ほどいた。聴衆はアミュテュスの意味する「子供達」の置かれた深刻さに、なかなか同情が追いつかなかった。次にロー・ジが「イノベーションがしたかった」と口にしたので、皆その曖昧な横文字の輪郭を描くのに気を取られてしまった。1人の科学者が「自由」の研究に邁進した結果囚われたという、悲劇にも喜劇にも見える場面で、聴取の第一幕は終わったかに見えた。

「では……」

 アミュテュスの右に座っていた上官は、人払いをして、痴話喧嘩ではなく、もっと込み入った取り調べに移ろうと思った。

「──じゃあ、王体もメリヴァに残してきたということか?」

 ヤオがつぶやき、一同は彼を見た。上官が尋ねる。

「なんだね、ヤオ」

「いえ」

 ヤオは、先ほどロー・ジに打ち込んだ一言よりも声を落としたつもりだった。部屋の人々は青年に敬意を持ち始めていた。名誉を傷つけられた恋人をただ一言で救い出したから。

「君らの持ち去った、王体はどうなった」

 フェリックスが消防服の中から声を出した。人々はフェリックスではなく、その問いの答えを持っているはずのロー・ジたちを見た。上官は渋い顔になった。この後の聴取で聞くはずだったことを野次馬たちが口出して、収集が付かなくなりそうだ。誰も消防服の中身など気にも留めなかった。ただヤオだけが、しっかりと彼を見た。

 ロー・ジは失った黄金の柱の高さを見積もるように、虚空を仰いだ。

 そのあとすぐに散会となり、ロー・ジとその一派は後に続く取り調べのために残された。

 メリヴァに向けての捜索隊が組織されることになり、フェリックスとヤオは、それぞれ別々の上官が引いていき、アミュテュスはもうヤオに近づけなかった。ヤオは恋人からどんどん遠ざかっていく。そのかわりに、しきりに消防服の男を気にした。

 フェリックスたち消防隊は港に集められ、船を出してメリヴァを目指し、王体と残された子供たちを捜索するよう命じられた。隊員はわらわらと港で出港準備をしたり、消火器具を船に積み込んだりした。フェリックスは手ごろな小さめの船に近寄ってぼんやりと周りを見守った。隊長らしき者がフェリックスを見咎める。

「お前、ぼさっとするな、出港準備だ」

「何をするんだ?」

 隊長は思いもかけない返答にしばしぼうっとしたが、あたりは騒然となっているので、指揮が十分に回っていないのだと考えた。

「日のあるうちに、ありったけ蓄電しろ。メリヴァまで動力がもつように」

「なるほど、この地域は陽光に乏しいだけ、蓄電が発達しているんだな」

「何を今更」

「で、どうやるんだ? ちょっくら実演してくれたまえ」

 フェリックスは相手を見上げ、指をちょい、と動かした。

「船を出せないのか? 操舵は?」

「舵を握ればいいのか?」

 隊長はまるで要領を得ない会話にいらいらしはじめた。

「お前、なんでここにいるんだ?」

 フェリックスはきょとんとして答える。

「聖なる消火活動に」

「向こうまで、歩いて渡るつもりか?」

「【主】がお許しになるなら」

 隊長は、はっとしたように、消防服の相手をしげしげ見た。

「あなたは、もしかして」

──ぎくり。

「ツァヴァヰェの隊か?」

「ツァヴァヰェから来ました」

 隊長の視線はフェリックスの頭からつま先までを何回か行き来した。──やれやれ、聖なるツァヴァヰェ人か。消防服を着てるとはいえ、周りの奴らより光っててわかりやすい、なんてことはないんだな。応援が増えているとはいえ、陸〔おか〕の奴まで紛れ込んでいるとは……。態度を軟化させつつ、呆れて周囲を見回した。出港準備を手伝っている、というよりは、周りをうろちょろしているヤオに声をかけた。こいつは幼子だったはずだが、船のエンジンをふかすくらいはさせていいだろう。

「ヤオ、この船を、動かせるようにしておけ。予備の蓄電池もあるだけ積むんだ。俺は、操舵者を探してくるから」

「わかりました」

 隊長が去ったのを見計らって、フェリックスは顔の覆いを開け、ヤオと微笑みあった。

 出せる船はすべて出ることになったので、隊長は十分な乗組員を見つけることができなかった。陸に上がらないという条件で、ヤオも乗船を許された。

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