千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第15章 枯れ骨の谷
第5話 母子
千年王国紀 八四六年
「では、お連れ合いは、以前海に出ていらしたんですね」
エフデは客人と居間にいた。石造りの僧房の小さな部屋は、あと一人でも増えたら窮屈な印象が拭えなくなるほど狭かった。客人と真正面に向き合ううちに、やはりもうちょっと距離が欲しくなる。僧はわずかにからだの向きを斜めにして座って、少し落ち着いた。
積んだ石が剥き出しになった壁はいろんなところがでっぱったり引っ込んだりしている。そこに表紙の綺麗な本を平置きしたり、ペンを置いたりしていた。
「子供の時から、ですよ。舟をゆりかごにしていたようなものです。私は、シーダーの母親のようなものだと思っていたし、そうでなければ、世話焼きのおばちゃんだと、思ってました。それが、あの子ができて」
女は、俯いて言葉を止めた。
エフデは僧房の小さな窓の外を見た。サリーに相手をしてもらいながら、おぼつかない足取りで、芝生の上を歩き回る男児がいた。小さな子供に慣れていないサリーは、男児が突拍子も無い動きをするたびに、不安げにこちらを見やった。視線を合わせてしまうと、今にも助けを求めてきそうなので、目の端で様子を追うだけにしていた。
「風邪をこじらせて、体を壊して……漁に出られなくなって、ずっと、塞ぎ込んでいたんです。私はもうすぐ百になるので、気の緩みもあったし、やり残したことがあるのではと、不安になっていたし。驕りも、あったかもしれません」
「驕り?」
女は、僧を前に、こころを打ち明けるために、ゆっくりとした調子になった。
「私も、自分のこと以上に、誰かを助けられる、年齢になったんだと。でも、常にそうであるように、いくつにしたって、真っ先に見張るべきものは、私自身の、こころであるべきでした。その余力で、シーダーに寄り添う、それくらいの距離が、必要でした」
エフデは慎重になるべきだと思う一方で、女性の膿を出す必要もあるかと思った。
「お子さんを持ったことを、後悔してらっしゃる?」
女は顔を一層伏せて涙を落とした。
「それがわからなくて」
窓の外からでも、部屋の中の感情の動きが察せられ、サリーは注視した。実のところ、子守をしつつ、心はエフデと、胸の中のもんもんとしたものを打ち明けにやって来た、ナラという母親のいる居間に向いていた。雲は出ているが風も穏やかないい天気なのに、戸も窓も締め切られて、胸がざわめいた。エフデがナラに近づき、何かを差し出したようだった。
──それ以上、近づいたりしないわよね?
エフデはナラに、涙を拭く物を渡したり、水をあげたり、しばらく部屋を動き回った。ナラと話し始めてから気がついた、昨日書き物をするときに齧ったパンが、石壁に挟まったままなのをそっと回収したりした。
ふたたび座り、窓の外に目を移したときには、サリーは洗濯物のしわをなおしていた。ナラはため込んでいた鬱積を吐き出すように続ける。
「シーダーは、ロー・ジにかまうことも、抱き上げることもないんです。預けようものなら、俺は三歳から海に出てたとか言って、あの子にもゴミ拾いを手伝わせようとして」
「ゴミ拾い。遺物拾いのことですよね」
「ええ。子供には、毒かもしれないのに」
ナラはハンカチをあてて鼻を啜った。
「最近は、街で飲み歩いているうちに知り合ったとかいう仲間と、他人に言えないようなことを、話したりしてるみたいで。調子はもうすっかりいいんだから、漁に出ればいいのに、遺物利用はまだブルーオーシャンだとかなんとか……」
「ブルーオーシャン?」
「ええ。青くない海があるんでしょうかね? 確かに曇りの日は鉛色をしてますけど」
ナラは日頃の怒りがぶり返したのか、吐き捨てるように言った。
かつては金属くずをより分けるだけだった遺物収集が、時代を経て、技術が復元されるとともに、新しい活用法が徐々に生み出されていた。物質的な資源はもとより、かつての人類が手にしていた情報や、技術力そのものが注目されつつあるのだ。産業推進の流れは、フェリックス王が大陸幹線道路計画を曲がりなりにも成功させ、ポンパドーターを爆発的に普及させたところから、時代を経るごとに加速していた。
「シーダーさんは、私と話ができそうかな」
「そうであってほしいんですが。想像できません。あまりにも違いすぎて」
女はそこでやっと笑った。冷笑がちではあったが。
エフデ自身、護教師としてさんざん人から頼られる立場であるにもかかわらず、調停となると気後れがした。だから、忠実に教えを伝えることには長けても、土地の風習や、人の有り様を変えようとは努めなかった。人々が教理を理解した結果、【主】と共に歩むことを選び取り、変わろうと祈り始めることを望んだ。僧房に居座るようになった今、半ば世捨て人的に、街々からはじゅうぶんに距離を取り、浮世とは一線を引いている時間が長くなっていた。
「せめてあの子は」
ナラは、だんだんと母親から離れていることに我慢ができなくなってきた様子の、ロー・ジを見た。
「ロー・ジは、シーダーから遠ざけていたいんです。せめて、あの人が自分を取り戻して、自分が何をしているのか、自分で気がつくまでは」
つづく






