千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第12章 菌魂転送
第2話 脱走
「霧が濃いですね」
ザプラも外に目を向けたが、彼女にとっては見慣れた光景のために、椅子から立ち上がることもなかった。
他にできることもなさそうだ。ベッドに入ることにした。見張りたちはそれが本業であるかのように音もなく動き、カーテンをぴったりと閉めたり、フロアランプの光量を落としたりした。女が布団を被った後に、母親のように寝具を整えることまでした。枕に頭を預けると、ピサンがそっと微笑んできたりもして。
──こんな、客人扱いも、きっと今が深臥で、他に起きてる人がいなくて、牢屋の手配ができなかったからね。
フェリックス王の言葉が頭で再生される。
──私が持ち去ろうとしたものは、国家にとって、重要なもの……。明日になったら、きっと、フェリツ城の人たちの前に突き出されて、厳しく尋問を受ける……容赦はしない。と言っていた……拷問を、受けるかもしれない──。
考え出すと、眠れなかった。
──フェリックス王は、さすが、大陸全土に名を轟かせるだけあって、人相も、姿も、尋常でなかった。いつ寝てるのかも、わからないような、鬼気迫るとはあのようなことを言うのだわ。気が狂って城から逃げ出したことがあるのも納得ね。ヰェナダーにいるはずが、フェリツにいて、何事かを追い求めている。今年のフェリツ巡礼団の、団長ではなかったの? 彼にとっては、巡礼でさえ、さして重要なことではないというの……?
フェリツとイツダテの間に「戦争」が危ぶまれるのも、大袈裟ではないのかもしれない。王にどこまでのことを、何を伝えれば、最善の結果になるのだろう。手段を選ばない、結果にこだわるフェリックス王にかかれば、全てがいいように解釈され、真実はねじ曲げられ、ヰェナダーにだって虚偽を報告し、あっという間にイツダテへの侵攻をはじめるかもしれない。
王の満足する情報が見つからなければ、私は、場合によっては、地下牢深くに繋がれるか、拷問の口封じに殺されることだって、ありうるのではないかしら。老人の亡骸の真横にいたって、仕事を抜け目なくやりとげるような冷血なのだから。人の何人分、いや、何十人分も生きた王なのだから。他人のいのちに対して、どれほどの価値を感じているだろう──。
あまりにも頭の中が騒がしくなった。静かにベッドを抜けた。部屋は動かない。ピサンもザプラも、薄闇の向こうで舟をこいでいる。
ベルベットの室内ばきを突っ掛け、再び窓辺に近づく。女性たちを起こさないように、重く垂れ下がるカーテンの裏側に回った。窓とカーテンの作る冷気に挟まれると、子供の頃に、宮殿でかくれんぼをしたことを思い出す。霧は一層濃くなり、農地が見えなくなり、森の向こうも空との境界が曖昧になっていた。窓からの白い光に浸され、自分もガラスになったようだ。
白い空の中に、細く、灰色の筋が立ち上っている。下へ辿ると、果たして火が焚かれていて、ウィスターと青年が二人、座り込んでいる。王はどこだろう? 窓枠の方まで動いてみた。また、ふと浮かんだ閃きのために、からだの支えも欲しかった。
──ウィスターと名乗る、あの医者が、味方になってくれるかもしれない。弁明を助けてもらうのだ。あの人は、もうすぐ帰るところなの? 朝までの時間潰しに、あそこで青年と、キャンプファイアをしているの? 明日、また私に会いにきてくれるかしら。気分が悪いふりをしたら、また会わせてもらえるかしら──。
「もし? 客人様?」
ピサンの声がしてはっと肩をすくめた。背後のベッドに近づく音がして、布団がめくられたようだった。
「どうしましょう」
困惑の声。
「いない?」
ザプラがこちらに向かってせわしなく近づき、カーテンを勢いよく押しのけた。肩を打つ布越しの手の感触を感じたが、相手はあわてて部屋の中に明かりを取り入れるためにそうしたのだった。カーテンの向こうに人がいるなど、思い当たらなかったようだ。
ザプラは胸騒ぎを抑えながら期待を込めて浴室を見に行く。予想はしてたことだが、女はいない。
「浴室もいないわ」
「逃げてしまったの?」
ピサンの声は震えている。部屋の角や家具の影を落ち着きなく覗き込む。ザプラは不安を押し殺し、つとめて冷静に振る舞う。
「警備を呼ぶしかないわ」
「他の人を起こすの? フェリックス様は、お休みかしら」
「まずは警備に知らせましょう。あなたは、ここにいて」
ザプラが部屋を出ていき、残されたピサンは他の窓のカーテンやクローゼットを次々と開ける。手持ち無沙汰になると、自らは見ていなかった浴室を確かめに行った。当然何もなく、ふたたび部屋に戻り、薄明るい部屋を見回す。
ふと、さっき開けたはずのカーテンがまた半分閉じ、わずかに風で揺れているように感じる。ゆっくりと近づくうちに、何かが屋根に落ちた音がする。カーテンを開くと──ガラス戸が開いている。音がした方を見ると、女が、屋根伝いに逃走していく背中が見えた。ピサンは廊下に向かって大きな声で叫ぶ。
「ねえ! 外にいるわ!」
警備が駆けつけ、バルコニーに出る頃には、女は庭へと駆け込んでいた。
つづく






