千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第9章 けがれている!けがれている!
「街に行くことなんて、ほとんどないよね?」
マロニエは演習林の入り口までついてきたが、ハンのところに引き返す気はなさそうで、歩みを止めず、話を切り出した。ヤオは思わずマロニエを見つめた。何かを思い出すことを促すように。街に出る時のための、ごく簡素な、サンバイザーと鳥の頭部の中間のような形の柳籠を被っていて、目は隠れていた。籠をかぶっている時の癖で、動作が心もち大袈裟になった。
「フェリシティには……」
しかしすぐに顔をそむけて口をつぐんだ。
最後にフェリシティに行ったのは、ちょうど五十年前だ。マロニエとバスに乗って、ルツ女王の戴冠記念の賑わいを楽しみに出かけたのだった。それまで二人きりで遠くに出かけたことなどなかった。街を彩る旗や花が、一段と眩しく感じるほどに高揚して、僕たちはもう大丈夫だ、と思った。洗礼が済んだら、プロポーズしようと。
「うん、しばらく行ってないね」
ヤオは五年くらいは出かけてないと聞こえるように、重くも軽くもなく言った。
──もう大丈夫だと思った。だからサリーが出ていって、ちょっと考える時間が欲しくて山籠りをしても、待っていてくれると思ったのに、恋人はあっさりハンと結婚してしまった。もうフェリシティには行きたくないし、しばらくはバスに乗るのさえ嫌だった。意地を張り続けた結果、あっという間に五十年経ってしまった。
ヤオがしおらしいので、マロニエは先行きが不安になった。
「大丈夫? 一緒に行こうか。せめて、モリシタくらいまでは」
ヤオは、ほかに通る人のない早朝に、並んで歩くマロニエとの距離が、実に当時のようにやたらと近いのが気になった。
「君は、子供達と一緒にいたほうがいい。もし……その、オイというのが、強い、呪いの力があって、子供達に、何かあるかもしれないし」
マロニエは下を向いて立ち止まり、顔を歪めたかと思うと、目を絞り、泣き出した。
──うわあ、ハンと同じ泣き方だなぁ。
動揺しつつも、距離感に働いた冷静さの余韻が、友人の顔を観察させた。
「私、何か、間違ったかしら」
マロニエは、子育てと商売で逞しくなった抜け目なさを引っ込めて弱々しくなった。
「いや、僕がもっと気がついて、子供達を、バスに乗せるべきじゃなかった」
「そこじゃない」
マロニエは手で顔を覆って泣き続けた。
「そんなことじゃなくて、もっと前。サリーが、私たちといた時に、私は、もっと、サリーに、やさしく……」
友人は、今を逃しては永遠に吐き出されることもなかったであろう、罪責感を打ち明けた。ヤオがあと一歩でも近づいたなら、懐に倒れ込んできそうだった。
ヤオは元恋人との間に、なんとか作った緩衝地帯を絶対に踏み越えたくなかった。
狭い村社会にあって、結婚してないだけでほとんど家族のようでありつつ、振られ、あっという間に別の男と結婚され、今は夫とだって何食わぬ顔で友達でいて、夫婦の子供達の面倒すら見られるまでに折り合いをつけてみせたのに。
他人行儀でいいから、さっさと一人にしてほしかった。いつもだったら、何にも言わずに放っておいてくれるのに、こうもやすやすと、誰かが死んで悲しいくらいで擦り寄ってくるなんてずるい。どいつもこいつも、兄を差し置いて、我先にと泣き出しやがって……ちょっと気丈に振る舞った結果がこれかよ。
鬱憤が込み上げてきた。こっちだって、まだ感情が処理しきれなくて気が立っているのだ。
怒りをスポンジに吸い取らせるように静かに息を吸った。演習林の入り口から市街へと続く道を、眺めるふりをして吐き出した。熱をもった呼気の友人にかからないように。風向きにさえ気をつかった。いらだちを気取られたくなかった。オルククとハンのように、まだ痛みを他人と分かち合えるほどに実感できていなかった。できないうちは、打ち明けたくなかった。マロニエと自身のこころは、とうに、分かち合える、同じものではなくなっているのだから。
サリーは妹であり、娘だった。小さいサリーに当然のように慕われ、頼られる時の誇り高さも、両親がサリーを軽んじたときの惨めさも、紛れもなくこころが覚えている。まだ、ヤオとサリーの時間は終わっていない。終わらせるつもりはない。終わったと思えるまで。だから、ある意味これからの歩行に期待してもいる。
青年はこころを友人から仕舞った。仮面を被りなおすように、柳籠をちょっと動かし、落ち込む友人を助けようと思った。
王都フェリシティまでは、二七〇スタディオン。隣の町カミモリシタまでの、倍以上の距離がある。空には厚く低い雲がかかり、山頂のかすみ柳が作る稜線との境界が曖昧になっている。
ヤオは冷静さを取り戻すために、怒りで褪せて見えた景色に、つとめて注意を向けた。
──確かに今日は、晴れそうもない。保冷庫は馬が引くからいいとして、一日歩き通すことを考えたら、これくらいの天気の方が、むしろ快適そうだ。
ヤオを長々と立ち止まらせてしまったので、マロニエは先に立って、また歩き出した。彼女の家は、演習林と隣町との間にある。ヤオを送っていく道すがら、帰るのだろう。マロニエは、感情を溢れさせたことで、さっきよりも気が晴れたようだった。ヤオは友人の背中を追って歩き出した。
第3話 呵責 おわり






