聖書ファンタジー 666 – 反君主の年
1タラントの雹──重さにして35キロ、10歳の子供ほどの重量だ。形も、膝を抱えた子供のような塊を想像すればいい。その雹が空から容赦なく降り注ぐ──しかも大量に。
フェリックスが「御怒りの大いなる日」という大惨憺時代について知ったのは、教会で牧師の説教を聞いたときだった。
(そんなでっかい雹がバカスカ降ってきて、腕なり脚なりが吹き飛んだとしよう……。痛いなんてもんじゃない。四肢がめちゃくちゃに潰れてなお、生き抜いたとしたらむしろ最悪だ。一発で頭に直撃してほしいもんだ)
フェリックスは神が与える運命を、忠実な信徒として覚悟していた。いつかはわからないが、人類の終末が確実に訪れると受け入れていたのだ。
やがて生涯を終え、眠りにつくと、聖徒としてパラダイスに召された。
その後、地上では預言のとおり破滅が起こった。神に反抗する者たちが激しく世を乱し、大惨憺時代が訪れた。
虫が湧き、水が血に変わり、巨大な雹が降り──混沌の極みに達した。フェリックスは全地がてんやわんやにかき混ぜられる光景を、天から見下ろしていた。
* * *
「地に帰還し、地を統べよ」
神である【主】は子らに命じた。7年と定められた惨憺の時が過ぎ去ったのだ。
パラダイスにいた聖徒たちは新たな使命を携えて地上に降り立った。
見よ──懐かしいはずの故郷は虚無と化していた。
「経済? 産業? 政府……? なにそれ、美味しいもの?」
生き残った人々から、何千年と築き上げられた文明の記憶は失われようとしていた。
7年という歳月は長すぎるということもないが、短すぎるわけでもないのだ。
惨憺期を終えた地には、新たな王たちが配置された。フェリックスたち聖徒にとって神のことばと等しい【書物】には、次のように記されている。
「聖徒たちは千年の間、救い主と共に王となる」と。
この記述を信じていたが、フェリックスの心には疑問もあった。
(全世界に国が二百あったとしよう。単純計算で、王は二百人程度必要だ。しかし信徒の総数はそれ以上。大半の者が王になれないんじゃないか? 交代制で受け持てば、それなりの人数は必要になるとしても。王とは、生きていく上での心構えのことを指すというのだろうか)
不遜な考えを抱きつつも、フェリックスは「【主】にはお考えがある」と自分を励ましていた。いざ千年王国が始まると、王が多く存在できる理由はあまりにも明快だった。
再建された共同体は、当初どれも規模が小さかった。百人ほどの人々が集まった村から復興が始まり、村々を統率する首長が「王」や「女王」と呼ばれはじめた。
つまり王という存在は、大惨憺時代を生き延びた人々を導く責務を担う者にほかならなかった。
フェリックスが出会った民衆は、大惨憺時代の災害、病、暴力、飢えや渇き、その他もろもろの恐怖を乗り越えて、疲れ果てた魂の群れだった。もはや自分の意志で歩むべき道を見失っていた。
もとの人口の何分の一にも削られた生存者たちに、フェリックスはいたわりを禁じえなかった。慈愛の念としか言えない感情が湧き上がる。
生き延びた民を導く──若い王フェリックスのこころに火が点いた。
参照聖句
制作にあたっては、主に『新改訳聖書2017』を参考にしましたが、著作権の関係で、パブリックドメインの口語訳聖書1955年版を掲載いたします。
▶1タラントの雹が降る
ヨハネの黙示録 16:21
また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降ってきた。人々は、この雹の災害のゆえに神をのろった。その災害が、非常に大きかったからである。
▶パラダイス
ルカによる福音書 23:43
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
▶大惨憺時代(大患難時代・主の日・御怒りの大いなる日・ヤコブの苦しみの時)
ヨエル書 1:15
ああ、その日はわざわいだ。主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからである。
マタイによる福音書 24:21
その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
▶聖徒の復活
コリント人への第一の手紙 15:50-52
兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
▶千年王国と、聖徒たちによる統治
ヨハネの黙示録 20:4-6
また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。







