聖書は間違えない。じゃあ物語は? 聖書ファンタジーと俳句の意外な共通点

バナー画像:終末論・物語構造・AI——神学SF研究ログを始めます

聖書ファンタジーのルール

聖書の世界観を背骨にした物語制作を行っている。

教派によっては異端的だな、と思われてるかもしれない。

私は福音派だけど、福音派内部の人でも私の活動は異端的に見えるかもしれない。

いっぽう、教会文脈から離れたとき、聖書ファンタジーというコンセプトは物足りないと思われそうだ。

世の中にはぶっ飛んだ発想の物語が山ほどある。

人工的に作られた生物と性交したり、宇宙に行って血液が水銀でできた生命体と友達になったり。

そのような物語に出会ったとき、「恐れを知らないな」って思うよりも「自由だな」って思う。

私もSFやファンタジーはどんな設定でも面白く読むし、モヤモヤする時は単純に作品としての掘り下げに疑問を抱くときだ。

イマジネーションは振り切ってるほど面白いということはわかっている。

それでも私が作るファンタジーに人工生物が登場することはない気がする。まして地球外生命体は登場しない気がする。

なんでかというと、聖書に出てこないからな。

聖書ファンタジーの一番シンプルなルールは、「聖書の記述と整合性が取れないものを書くな」ということだ。

誰が決めたって、私が決めたんだけど。

何でそんなことをする必要があったのかといえば、サッカーのルールみたいなものだと思ってもらえばいい。

各種スポーツ競技にはルールが存在するし、競技の存在意義はルールによるところが大きい。サッカーは限定的なフィールドの中でしか成立しないけど、ファンは熱狂している。

聖書はサッカーのルールブックよりもぶ厚い。サッカーに比べたら自由度は高い気がする。

(ルールブックが分厚いということはそれだけ規定が多いから自由じゃないっていう意見はあるかもしれない。私は守備範囲が広いと解釈している)

スポーツのルール以外では、俳句とか漢詩の形式だと思ってもらえればいい。

ある決められた枠組みの中での芸術点とか、制約があるからこその発想の転換ができてくることを期待している。

今日話したことの中でも様々な論点が浮かんでくる。

宇宙人がダメなら人工知能もダメなんじゃないのとか。

私はこれまで人工知能について取り扱った物語も制作した。なんで、っていうことも先々の記事で取り上げていきたい。このブログではまさにそういうことをしゃべりたいから。

聖書は誤りなき神の言葉であるという。神学ファンタジー(聖書ファンタジー)のルールブックがあるとして、まず初めにしたためるべきはこの一句に尽きる。

聖書は絶対的に正しい。聖書の神が創造された天地に生きているのが私だ。

ではその「聖書」をコンセプトにした物語制作とはどんなものなのか。


ミニストリーと時間の試練

寄り道するが、私の取り組みはキリスト教界でいうところの「ミニストリー」にあたる。

ここでのミニストリーとは、信仰共同体の中での様々な活動を意味する。

教会における奉仕全般、神様への奉仕や社会福祉的な活動、礼拝の手伝いとか、聖書の勉強会とか、ボランティアなんかもそう。あとはもちろん宣教活動も。

私が洗礼を受けたのは9年ほど前だった。その当時から、「ミニストリー何しよう」って考えていた。誰に教えられたわけでもないけど、信仰者としての成長とミニストリーとはセットだと思っていた。

よってミニストリー歴も9年だ。

はじめの2~3年はアプリでも開発しようかなと思っていた。

そこから徐々に創作者としてのルーツを遡っていくことになった。

絵を書いたり漫画を描いたりもしてみた。ストーリーを作ることはさほど苦もなくできた。

最終的にはすべてを取り去って文字だけになった。

ストーリーを飾るためにイラストを描いたりサイトデザインをしたりはするけど、主食は「作家」ということでいいと思ってる。それ以外は副菜だ。

なんで創作者としての遍歴を話したのかと言うと、一朝一夕ではないということをお伝えしたかったからだ。

信仰者は、どれだけ聖書と共に過ごす時間を積み重ねたか、神との関係性の時間を量的に測られることがあると思っている。

これも信仰者になってすぐに知った。教会のリーダー的な立場になろうと思ったら、まずは10年くらいは平信徒としての時間を過ごしたほうがいい、みたいなことを、教会の指導者層が言っていたのだ。つまり牧師だとかそのあたりのレイヤーの方が。

冷静に考えて、聖書を読んで教会に通うだけの10年は、私には退屈極まりないと思った。

何かをやりながら礼拝や祈りを兼ねられたら、楽しく時間を過ごせるだろうなと。

活動の形態としては賛美グループへの参加がある。スモールグループでの聖書研究会がある。

信徒になりたての2~3年は、聖書塾に通ったり信徒たちとの交友に費やしていた。

その間、病床にあった父が死に、コロナ禍が来て、故郷に帰り、猫が死に、過労で倒れ、失業し、困窮し、ありとあらゆることが起こった。

いろんなことが儚く思えて教会に行くのもしばらくやめていた。

というか教会に通う気力と体力がなかった。

その間も聖書を勉強して、ずっと作り続けていた。


神学ファンタジーはもっと面白くできる

作ったものはあらゆる手段で発信し続けているが、今もってさほど関心を持たれていない。

それについて、正直なことを言うと、今までのどの地点においても、安易に成功しなくてよかったと思っている。

文章もイラストも、デザインも企画も、一人でやったにしては高品質だという自負がある。リリースのたびごとに自信があった。

でもどの瞬間でもバズったりしなくてよかった。

っていうのは、精神論とかディサイプルシップ的な意味合いもあるけど、もうちょいビジネスやプロデューサー目線で行くなら、「コンセプトの強さ」は時間の試練でしか試せない所があるからだ。

ある面では「より多くの人に受け入れられたか」がコンセプトの良しあしを決めることもある。

しかし「共感」を価値基準にすると、コンセプトがいいかどうかの決定権は私ではなくて、インターネット空間の顔も見たことがない大衆になる。

神学ファンタジーという文脈では、マチュアな判断ではないと思う。なぜそれを選び、選び続けているかの説明責任が果たせることもクオリティに含まれる。

Wry Wondersは2025年の2月22日にオープンした。一年めにまた当初のコンセプトに立ち返り、腰を据えて掘り下げようと思ったのも偶然ではないだろう。

私は飽きてないし、迷いも少なくなってきた。

私のやってることはミニストリーであり、ある意味での召命ということでいいのなら、初めのうちはもちろん、自分を突き動かしているのは衝動、ホーリースピリットの導き、という回答以外にはないと思っていた。

今この瞬間、私を割ってくれたら煮え滾るマグマかダイヤモンドかが飛び出してくるのにな、それを見てくれた方が楽なのにな、と考えていた。

でも、コンセプトへの確信が高まり、活動を次の10年20年につなげていこうとするなら、熱量を言語化していく必要がある。言語とはメディア(媒介)だから。言語を頼りに人と人はつながるから。

シンプルなのだ。たぶんこの取り組みは、新しいゲームのルールブックを作る、みたいなことだ。

神学ファンタジー・神学SF・聖書ファンタジーとは新しい俳句みたいな、サッカーみたいな、五言絶句みたいなものなんだと思う。

聖書には間違いはないけど、間違いをする余地がある場所はいつだって必要だと考えている。

ゲームとは楽しむものだ。本質的には楽しい事でないと人は振り向かない。

私が今日の時点で成功していないのはシンプルな理由だ。

もっと面白くできる。

神学ファンタジーのコンセプトはそう簡単に消費されるものではないと思っている。


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