第25章 イツダテ城/第10話 意志|千年王国ファンタジー 幻想聖典エスキャトロギヤ

第10話 意志

「大丈夫なの……過呼吸にならないかしら」

ウィスターは、ヤオの遠吠えのような泣き声のする方を振り向いた。アミュテュスを風呂に入れ終わったところだった。アミュテュスは泣き腫らしてむくんだ顔で、表情はなかったが、顔色はずいぶんよくなった。医師はコップに水を汲んで、ヤオの様子を見にいくことにした。

 ドアを開けると、まずフェリックスが目に入った。回廊の手すりに腰をかけて、離れたところからヤオを見守っていた。ときどき、何事かと覗きにくる者があると人払いをしていた。ウィスターも口を結んでフェリックスに近づいた。

 王は彼女の手からコップを抜き取り、水を飲んだ。ヤオの声を聞きながら、自らの喉も絶えず震えていたから。アミュテュスが戸口に立ったのが見えた。風のない日の柳のようにたよりなくゆらりとしていた。視線は合わなかった。楽師が渡り廊下の反対側を見ていたからだった。また人が来たのかしらと、視線の先を追った。

 そこには、白い、頭のない、子熊のような、小さな幽霊が立っていた。

 フェリックスは手すりから降りて、首のない子白熊と女性たちの間に立った。首がないというより、頭の部分を前に、不自然に、深く深く垂れ込めている体制にも見えた。

 子白熊が一歩ちょんと踏み出す。足音はない。足の裏まで毛だらけなのだ。──また一歩。回廊を渡るのだろうか。周りは見えて、もしくは感じているのだろうか。

「いたぞ! 幽霊だ!」

 他の隊員も集まってくる。

──違う……栄化体……おそらくは……王!

 フェリックスは演習林で目にした、「二足歩行の羊」を覆っていた菌糸を思い出した。腰に下げていた鞘から、剣ではなく、トーチを引き出した。

「手を出すな、それは菌糸のかたまりだ。叩けば飛び散る!」フェリックスが叫ぶ

「栄化体は、傷からそいつに侵されるわ。あまり近づかないで!」ウィスターも叫んだ

 子白熊はもう一歩近づく。騒ぎに反応して、歩調をゆるめた。多少なりとも、周囲を感じ取っているようだ。

 フェリックスはもう片方の手で着火具を取り出したが、それで手が塞がり、なおかつ首のない子白熊から目が離せないために、前を向いたまま話しかけた。

「ウィスター、火を」

「え! どうやるの?」

 ウィスターは着火具に触れることもせず慌てふためいた。

 他の隊員たちは、次々にトーチに着火したが、子白熊を挟んでフェリックスが向こうにいるために動くことができなかった。

──捕らえるには、動きを封じるには、どうすればいい?

 フェリックスは火のついていないトーチを差し向けながら、じりじりと子白熊に相対した。

 手から着火具が抜き取られる感触がし、火がつけられて返ってきた。

──なんだ、できるじゃないか、ウィスター……。

「布を、持ってきます」

 枯れて鼻の詰まった声が耳元で聞こえた。

──ヤオ。

 フェリックスが青年だと気が付く頃には、ヤオはアミュテュスの隣をすり抜けて部屋に入り、寝室の大きな大きなベッドのシーツを引き剥がした。婦人が眠っていた温度と、香りと、湿度がまだ残っていた。浴室に行き、まだ溜めてあった湯にシーツを浸けて、ふたたび廊下を引き返すうちに絞った。戻るまでに、火を持った者たちが渡り廊下や庭に出て、子白熊を取り囲んでいた。暴れ出す気配はないが、火を避けながらも一つの方向、アミュテュスの部屋を向いて進もうとしていた。ヤオは他の隊員たちとシーツの端を持ち合い、宙に弧を描くように腕を振って空気を含ませ、子白熊を覆わんとした。布は濡れていたが、薄く、なめらかで、大きかったために、また庭に渡る風のために、じれったいほどゆっくりと落ちた。

 子白熊は、落ちてくる布の下で、その重さだけで、ゆっくりと崩れるようだった。それで、菌糸の芯にある形が、布越しに輪郭を描いた。華奢で、少年か少女を思わせたが、それもすぐに崩れ落ちてしまった。

──メイ様。

 アミュテュスのこころに、昨日の茫然自失から初めて、声が響いた。と同時に前に立つフェリックスがごくりと唾を飲み込むのが目に入った。

「もう少し、上に布を重ねよう。それから、薪を。灯油の方がいいか」

 フェリックスが指示を始めるが、周りの者たちは、互いの顔を見て、何が起こっているのかを理解しようとした。

「フェリックス三冠、これは、一体」

「これは、もとは人だったはずだ。おそらくは、イツダテ王……」

 確信があるわけではないが、壁を抜けるほどの栄光の力の持つ王を、この菌であれば捕らえることができるのかもしれない。そして王の持つ栄光のからだとこころといのちが、菌のなかで、出口を求めて空虚に彷徨っているのだ。

「であれば、この方が王だとして、まだ……まだ生きておられるようなので、この状態でヰェナダーに運び、癒すことはできないでしょうか」

 隊員たちの背後に、ツユリやサバ、他の国々の王たちも集まってきた。

──「生きている」とは、言い難い。たぶん、分解されている……。

 フェリックスはトーチを握り直し、こころに言い聞かせた。手が汗ばんだ。空いた手で鞘にそっと触れた。鞘はふたつあり、木刀の他、研ぎ澄ました本物の刃も帯びていた。

「今日は、十四日」

 人々は、王がなぜ日付のことを言い出したのか、すぐにわからなかった。

「我々は、年ごとに、俄庵〔にわかいお〕の祭りにて、ヰェナダー神殿に礼拝を捧げる義務がある。毎年の収穫を、我らの【主】に祝福されたものとするために」

 そこでもまだ、フェリックスが言わんとしていることを汲み取った人はいなかった。

「十六日までに、イツダテは【主】の御前に礼拝をささげなければならない。私はそれを成就するために召命を受けた。これがイツダテ王だという、確たる証拠はないが、王体であると信じて、肉、精、霊を、今、私たちの父にお返しする。今儚ずれば、十六日の朝、ヰェナダーに上がる。これより早く、イツダテ王が、ヰェナダーに上がる方法はない」

 人々は唖然とした。正体不明の首のない白熊が現れ、それは菌糸のかたまりであり、イツダテ王であり、王と知りながら、破天荒で大陸に名を轟かせた王が、千年王国君主からの召命のもと、焼こうとしている。これを一体誰が止められる、いや、同意できるというのか。

「私が、やる。懲罰があるならば、私が受ける。私もこの後、ヰェナダーに上がるから」

 フェリックスは同意など求めていなかった。もはや、この場で誰よりも意志を強く持つことでしか、押し切れないのだ。

「しかし、三冠──」

 人々はやっと事態が飲み込めてきた。だからこそ時間が欲しかった。隊員たちは自然と、王たちに判断を乞い願うように視線を送った。ハヤジャ、ヨッパ、ジンニの王たちは、フェリツの王たちを見た。フェリツの王たちは、フェリックスの友であるツユリを見た。誰もがフェリックス王から視線を外し、ツユリ王に集中した。ツユリだけが友を見て、友は、布の下でわずかにひょこ、ひょこと動いているものから視線を動かさない。そよ風が吹き、午後の陽は蒼さを増し、木々がゆったりとさざめいた。

 ツユリ王は、他の隊員からトーチを受け取って、進み出た。友に近づくために。

「フェリックスの召命は、私たちフェリツの召命です」

 ツユリは王である友が、胸中に人知れず抱えて来た思いを悟り、分かち合う覚悟をした。

「皆様は、私たちが召集しました。だから、全ての責任はフェリツが負うのです。時間がありません。旧い太陽が落ちる前には、焼きましょう。【主】が古い刻限を採用して、日没で日付が変わってしまうと、全てが無駄足になってしまうから」

 ツユリは、友が戸惑いをはぐらかす時にこそ冗談を言うのを、真似てみたのだった。

* * *

 ツユリの言葉を聞き届けると、アミュテュスは部屋に戻った。ヤオがシーツを剥がしたり、濡らしたシーツを廊下で絞ったりしたので、床は濡れ、コンソールテーブルの上の花瓶が落ちて割れていた。

「ごめんね。君の部屋が、めちゃめちゃになって」

 ヤオもまた部屋に入ってきた。部屋の混沌の大半はアミュテュスの仕業であるのだが、青年がとどめをさしたので謝ってきたのだった。

──とか言って。また他に、もっと布をくれとか、燃えそうな家具をくれとか言うんでしょ。あなたの剥がしたシーツの価値だって、わかってないんでしょうけど。私の家具は、最高級のチークを使ってるんだから、燃えないわよ。

「迷惑ついでなんだけど」

──放っておいたら、カーテンだって引き剥がすつもりでしょう。イツダテの職人が、私の優美さを図案化して、特注で織ってくれたのよ。世界に一つしかないの。おわかり?

「あのカーテンとか使ってもいい?」

 ヤオは、窓に掛かった、余分なほどドレープのかかったレモン色のカーテンを指差した。

──勘弁してちょうだいよ。使ってないピアノのカバーをあげるから。

 アミュテュスはヤオの服をひっぱって、いらないものを押し込んである衣装部屋に連れて行くことにした。これまではヤオをほとんど無感情に侍らせていたが、やってほしいことを、やめてほしいことを、もっと伝えてもいいと思い始めていた。

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