千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第25章 イツダテ城
第9話 限界
フェリックスとウィスターが回廊を抜けてアーチをくぐると、内庭になっていて、石だたみの細い通路や飛び石が何方向にも伸び、それぞれの先に、東屋やちいさな宮がひっそりと屋根や壁を覗かせていた。城の主要な建物の窓からは、樹々や人工の岩棚の下に埋没するように作られている場所だった。妖精達の住まう隠れ里を思わせた。そこだけは不思議と、城の主部にあったような蹂躙を免れて、王たちが足を踏み入れた時にやっと、空気が動き出したのだった。
「アミュテュス! ヤオ!」
フェリックスとウィスターはもはや叫んだ方が早いと声を上げた。宮殿の窓から覗き込む隊員を幼子たちと見間違えながら、一歩ずつ森に分け入り、名を呼び、耳をすませ、あたりを見回した。
「もう安全よ! いたら返事をして!」
声が木々にすいこまれ、木の葉の護る閑の中に、返ってくる声を待った。
きい、と鳥の鳴き声にも似た、窓の開く音がした。
「ウィスター! 殿下!」
緑の向こうから、ヤオの声がした。
「僕たちはここにいます!」
* * *
ヤオたちのいる建物に近づくと、そこは城の主要な建物から小さな渡り廊下で繋がっているものの、独立した宮だった。城の北東部であったが、長大な杉の木が生い茂ってヰェナダー光も抑えられ、街の音も、城内の音も届かずにひっそりとしていた。
宮は山の急な斜面に沿って建てられていたので、フェリックス達がたどり着いたところは、ヤオのいる一階よりも下にあった。
部屋に入ると、アミュテュスは寝室に横たわっていて、ウィスターが顔を覗き込むと、医師をじっと見た。そしてまた泣き出した。幼子たちを案じていた捜索者二人はもう、その場に手をついて崩れてしまいたくなるほど安堵した。見たところ二人は、少なくともいのちだけは、無事だったからである。
ウィスターがアミュテュスを診ている間、フェリックスとヤオは城に続く渡り廊下に出た。部屋の暗さの中でもヤオの顔はどす黒く沈んでいたが、より明るいところに出ると、目の周りにくまができて、目は充血して落ち窪み、肌全体が乾いて白くなっていた。二人は渡り廊下から庭に降りる石段に並んで座った。
ヤオは王と肩を並べることに落ち着かず、かと言って庭の樹々の枝ぶりを話す元気があるはずもなかった。ずっと息をひそめて過ごしていたので、大急ぎでアミュテュスの手当てを始めるウィスターと、覇気を纏ったフェリックスを前にすると、まともに考えられなくなっていると気がついた。
「イツダテの王様たちは、見つかりましたか」
ずっと城内にいたのに、何もわかっていない。フェリックスの手がヤオの背に触れた。
「まだだ」
「すみませんでした。何もできなくて」
一晩中、恐怖の中で過ごした。混乱に乗じて何者かが自分たちを殺しにくるか、連れ去りにくるかもしれないという思いを捨てきれなかった。ドアの鍵は壊れていたので、家具をひっぱってきて塞いだ。アミュテュスが亡霊のように彷徨いながら泣き、泣いては倒れて眠り、目を覚ませば啜り泣くのを見守りつつ、ドアや窓の外の気配に神経を使っていた。
プールで見た奇異な子供……ダプネーを探しに行き、もっと確信に迫る事実を掴まなければと、何度も思った。今にも囚われた王たちが移送されて行くところなのかもしれない。勇敢さが今まさに試されていて、城内を探索してみるべきなのかもしれない……でも、事を荒立てたら、アミュテュスにまで危害が加えられるかもしれない。むしろ、アミュテュスが部屋を飛び出して、城内で暴れ回るかもしない。部屋を出られなかった。身の安全が保障された今になって考えると、脅威がただの取り越し苦労だったのではと、やらなかった行動がつぎつぎに悔やまれた。
「君と、アミュテュスに会えて、どんなに嬉しいか……私は……」
フェリックスは、恐怖を乗り越えたヤオが、胸に泣きついてくるなら、おおいに甘やかして、頭を撫で回してやろうと構えていたのに、青年は両肩に途方もない罪責を負って沈んでいる。ヤオのことだから、婦人の守護を任せてもらったのに、なにもかもを台無しにして、主君の真心をも傷つけたと、深刻になっているのだろうが。
「アミュテュスは……すみませんでした。アミュテュスを……」
フェリックスが、そういえば、あの部屋は嵐が通り過ぎた後のように荒れ散らかしていたな、部屋で賊との一悶着があったのかしら……と思考を辿っていくうちに、喉の奥にムカデが這うようなざわつきが抑えられなくなった。これだけ教えてもらえたら、もうあとは好き勝手に落ち込んでいい、と勇気を込めて、ヤオの肩を掴んで起こした。
「アミュテュスの、からだは無事なのか?」
王の顔はよほど愕然としていたのだろう。ヤオはしばらくぼうっとして、嬲られることの婉曲表現だと気がつくやいなや、青ざめて頷いた。王は凍った血が動き出す時の寒気を振りほどくために、首を振った。
「なら……よかった、いや、よくはない。よくはないが、よかった。君は、やり遂げたと言うことだ……アミュテュスの盾になり、声になった。あの人だけでは、私たちにとって、もっと……もっと、恐ろしいことになっていた」
──でも僕は、彼女の、剣になれると思っていた……。それが、最高の、献身の、はずだ。でも、結局のところ、戦うべき時に勇敢で、鋭く、自分さえ折れてしまえと、切り込んでいき、傷ついたのは、アミュテュスだ。あの人は、本当に必要なら、叫ぶことだってできる。しないのは、するほどに、重要なことでは、ないからだ。
僕が部屋を出て行っても、アミュテュスは、あの哀れな子供に向けたほどの切実さは感じないだろう。逃げ出したのだと失望されるかもしれない。僕も、彼女を信頼しきってはいない。なおさら、部屋を出ていくことができなかった。こんなに、一晩のうちに、自分を嫌いになってしまったのは、覚悟の足りない浅はかさに、戦う準備の何も整っていない頼りなさに、存在感の軽さに、何度も、出会い続けたからだ。さらには、僕は、あの男の「命が惜しかったら、この部屋で縮こまってろ」という言葉に、縋り付いてもいたんだ。
フェリックスが想像していた恐ろしいことは起こらなかったが、ヤオ達が紛れもなく傷つき、苦しんでいる事実に、焦点が合ってきた。
「君が見た恐ろしさは、私が受けるべきだった。私が、いや私も、君たちと共にあるべきだった」
幼子たちがこうして無事に切り抜けられたのだから、彼らと共に隊を飛び出しても良かったかもしれない。もちろん、そんなことはない、一人ではなく、三人でもなく、二人だから、乗り越えられたのだ。
──そう、殿下だったら、あのとき、脇目も振らずにロー・ジや周りの男たちに殴りかかっていただろう。アミュテュスの気が済むまで、奴らを血祭りに上げただろう。
あの陰気な男の顔が、原型を留めないほど歪むのが容易に想像できたとき、ヤオは少し笑ってしまった。笑いは押し殺していた感覚の全てを奮い立たせた。手足が、腹が、胸が、頭が、一斉に針で突き刺されるようだった。痛みが見えるほど目が眩んだ。息が詰まり、動けなくなり、受け止めきれなくなった。我慢の限界だった。
心血をそそいだ庭園ごと、森を焼かなければいけなくなった時から。サリーの遺体を解剖しなければならなかった臥から。闇の奥深くからアミュテュスが浮かび上がってきて、もうこの人からは逃げられないと直感した時から。オイに呪われた妹が戻ってきた時から。十年以上つきあっていた恋人が、あっという間に結婚して行ったときから。家族が次々に森を出て行った時から。妹にどれだけ愛情をそそいでも道を外れて行った時から。親が妹に向ける愛情を持っていないと知った時から。自分は父と母との間にある愛情ほどには愛されていないとわかった時から。生きる上では悲しみとつまらなさと向き合うこともあるのだと理解したときから。こころよりもっと深い場所に降り積もっていた、擦り切れて埃になっても行き場のない道理への悲しみに、怒り、底なしにがっかりした。
どこまでも落ちて行き、このからだが、おそらく黒く硬いであろう地の底に着いたなら、からだとこころ、いのちの全部を打ちつけて、血も精も魂も、これ見よがしにぶちまけてしまおうと思った。
しかし底はなかった。ヤオをこの重すぎるいのちの中に置いた手は、なお重くのしかかりつつ、いのちの全責任を持つために、御心に叶う者へと導くために、青年を離さなかった。あと少し落ちれば手応えがあるというところで、わずかに浮いていた。ヤオは御手を払いのけることができない重圧に隅々まで押し潰されつつ、その手を貫くように入り込んでもいる。打ち消しあい、生まれ続ける力の中で、内側に潰され、外側に切り裂かれ、高められ、卑しめられた。
いのちある限り抜け出せない御力に対して、ヤオは今までどう接したらいいのかわかっていなかった。ただ頭を低くしてやり過ごすだけなのだと。しかし、アミュテュスの叫びを聞きながら、何を今まで難しく考えていたのだろうと思った。全身で【主】の前に、こころを注ぎ出せばいいのだ。この圧倒的な不当さを。行き場のない愛の見返りはなんなのだという怒りを、手を伸ばしても逃げていく恋を、持つ者と持たない者の差を、こんなことが、なぜ、この僕に、何一つ目立って悪いことをしていない平凡な人生に、起こり得るのかという訴えを。
嘆きの中に、人に見せるべきでない、自らの愚かしさと傲慢さを、人間としての淀みの一切を溶かし込みつつ、言葉に形作ることなく叫べばよかったのだ。
ヤオはせめて主君に崩れた顔を見せないように、立って、ふらふらと手近な樹まで歩いていき、もたれて、吠えるように泣き出した。こころを刺激する、生まれてこのかた見てきた、醜く、情けなく、悲しく、恥ずかしいもの、全部を思い出しては、泣いた。
つづく






