第12章 菌魂転送/第3話 偉人|千年王国ファンタジー 幻想聖典エスキャトロギヤ

第3話 偉人

──女が逃走を図る少し前のこと。

 フェリックスは、ウィスター医師と、青年ヤオに、「面白いものを見せる」と言い、城の裏庭に一緒に来てくれるよう頼んだ。

「面白いもの。今日はじゅうぶん見ました。もう寝たいです」

 ウィスターはまったく乗り気じゃない。ヤオも、深臥に外で面白いものが見られると言われても、カブトムシくらいしか思いつかない。

「ちょっと、念の為、付き添いが欲しいだけだ。一緒に来てくれるだけでいい」

 王は口調は丁寧だが、なんとしても我を通すつもりなのが伝わってくる。

「警備の方じゃ、だめなんですか」

 ウィスターはなおも渋った。

「私の思いつきのために、彼らは動かせん」

「私らはいいって言うんですか」

「例の件を、不問にしてやろうではないか」

「お供します」

 医師は態度を翻した。

 三人は、城の裏に出て、古いオリーブの木々が植わっている場所に踏み入った。鬱蒼としているというよりは、樹々どうしのあいだに適度な空間がある。ヤオの歩調がだんだんと遅くなり、ついには立ち止まった。

「すごいな。この庭に、どれだけの手間がかかったんだ」

「庭? 自然なんじゃないの?」

「ちがうよ。計算して、手を入れてある。自然に見せかけて、美しいところを、切り取ったんだ」

「お目が高い。どこを模したか、わかるか」

 王は二人を先導しているので、背中越しではあったが、気をよくしたことが声でわかった。

「ゲッセマネかな。ヰェナダー七十景の」

「ご名答」

「本で見た、ヰェナダーのゲッセマネとそっくりだ」

「ただ似せたのではない。フェリツ領内の野生種のオリーブと、独自に配合した土壌で、ここまで作り上げたのだ。ヰェナダー産の土やオリーブを使わずに」

 ヤオは思わず中腰になって地面を凝視し、また改めて庭に目をはこぶ。

「えぇ! じゃあ純国産の苗と土で、忠実に再現したゲッセマネですか。そんなことが可能とは」

 王は満足げに鼻をすんと鳴らした。

「まあ、霧が晴れて、細かいところが見えるようになったら、色々粗が目立つんだがな」

 ウィスターはついていけなかった。

「二人して、庭おたくですか。いや、これは、褒め言葉ですよ」

 青年はさっきまでののんびりした調子から、だんだんと早口になる。

「大公は、ヰェナダーの風光明媚な景観を、国内の七十ヶ所で再現なさったんだ。演習林には、十二ヶ所ある」

 そうか、演習林にあるのはヰェナダーの苗と土を輸入したけれど、城内では純国産に挑戦なさったのか……、などと、一人でぶつぶつ喋り続ける。

「金持ちのお遊びですね」

 ウィスターは木の根に足を取られそうになるのを、下を向いて慎重に歩く。足元に気を張るものだから、ますます地が出て率直になる。

 青年はすっかり庭に魅入られ、当初の目的を忘れて別方向に歩き出しそうになっている。

「であれば、少年、大公の、菌魂転送はご存知か」

 王は引き戻すために話しかけた。ヤオはさっと振り向いてはきはきと答える。

「はい、もちろん。僕は全史の全5巻を十回は通読……」

「それならわかります!」

 ウィスターが割り込んだ。

「菌魂転送が『フェリックス大百科』の第5巻に載ってからは、子供はおろか、大人も、転送術を真似して、国中の人が山籠りして、泥だらけになったんですから」

「『フェリツ開拓全史』です」

 ヤオがウィスターを訂正するためにすかさず言った。

「私がちょうど百歳になるかならないかくらいの時だったわ。5巻が出たのは。父親に付き合って、休日のたびに山に入ったり川に入ったりして、母親に呆れられたものだわ」 

「社会現象だったな」

 王が懐かしそうに言った。第5巻の初版は三百年以上前だというのに、大人二人で昨日のことのように話す。

「森でも、子供に菌魂転送の話をすると、しばらくは注意して見てないと、毎回何人かは姿をくらまして、ジャガイモみたいに泥だらけになって、帰ってくるんだよな」

 ヤオが言った。

 王は小さく首を振った。次回再版するときは、注釈をさらに強調しよう、とでも思っているのだろう。

「まあ、実際、誰もできたって人は、いないんだけどね」

 ウィスターが言った。

 ヤオは口をつぐんだ。百歳になって栄化して、まずやりたいことがあるとすれば、菌魂転送だと、胸に秘めているのだ。

「そうだな」

 王は、目当てのオリーブの木まで来ると、根元に座り込んだ。その形は、彼が収まるのに、あつらえたようにぴったりとしていた。

「私も、転送に成功した例を、多くは聞いていない。私と、近しい友と、西の僧侶たち」

 話しながら、胡座の間から覗いた、芽吹いたばかりの細い若木をつまんだ。

「私……?」

 青年はここにきて初めて、男をじっくりと見た。

 王はほんの少しの時間、下を向いて完全に静止したように見えたが、再び目を上げた。彼らの間にはうっすらともやが立ち込めて、男の顔の疲労や横柄さを柔らかくした。眉毛の濃淡や唇を形づくる影の細部に至るまで、妖しいまでに美しかった。

 ヤオははっとした。

「あなたは……大公。フェリックス、宗王」

「いかにも」

 フェリックスは微笑した。タイトルが多すぎるからだった。大公、宗王、三冠に森林王、道路王などなど。陰では、暴君や狂王、と呼ばれている。

──あらら。知ってたんじゃ、ないのね。

 ウィスターは、王を凝視したまま凍りついた青年を見た。まさか伝説的な人物が、目の前に現れるとは思っていなかったのだろう。事態が飲み込めずに、頭に思いつくことを羅列しはじめる。

「フェリツの、初代王で、演習林を、作って、かすみ柳を、作って、大陸道路を、敷いて、フェリツ開拓全史の、著……」

「少年よ」

 放っておくといつまでも続けそうなので、フェリックスが制した。

「今日は、君に会えて嬉しい。君と話すのは楽しい。ただ、時間が惜しい」

 ヤオはぎゅっと唇を結び、そのまま息を止めた。王の言葉の一つ一つが、まるで金言であるかのように目を潤ませた。

「君の妹、サリーが、初めに身を寄せたのは、西の岬の、カーサブランコ、エフデの僧房に間違いはないか」

「間違い無いです。エフデ、そう、エフデです」

 ヤオは、かつて妹を託した護教師の名前を繰り返した。自身が知っている人を、太公も知っている。それだけで胸がいっぱい、という様子だ。

 フェリックスはヤオの様子を気にも留めない。相手が目を輝かせることなど、全く見慣れているのだから。まるでちょっと近所に出かけるかのように言い放つ。

「私は今から、そこに行く」

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