千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第10章 フェリシティ
第6話 出現
臥が深まって、雨がまた降りはじめた。
ウィスター医師は研究室のドアを閉じ切り、解剖を進めていた。横になっていてもいいと言われたので、ヤオは長椅子の上に寝そべり、クッションを腹に乗せていた。うとうとしてきた矢先に、チェーンソーで木を切り倒すときのような、何かを削るモーター音が聞こえてきて、跳ね起き、どきどきして、頭が冴えてしまった。
解剖なんて、オルククや、村長に相談もせずに、知り合ったばかりの医者に、任せてしまってよかったんだろうか。頭に手をやって、触れたのが髪の毛だったので、その時になって気がついた。籠がない。あの岩場で脱いで──そのあと、どこにやったんだっけ?
なんかやたらと顔がすうすうして落ち着かないとおもってたら、そういうことだったか。髪をぐしゃぐしゃと掻き、頭頂部の頭蓋骨がへこんでいるところに指を引っ掛けた。
判断できることなど、昨日妹が帰ってきてからは、ほとんどなくなった。ほんのちょっとでも取り返したくて、解剖に同意してしまったのかもしれない。
部屋の奥の両袖机を囲むように、本棚があった。両袖机の背面の棚を挟むように、換気にしか使えないような細長い窓があるきりで、雨の臥の濃い灰色で塗りつぶされていた。
部屋は蓄電灯やスタンドライトがついているだけでうす暗かった。ヤオは雨の音を聞きながら、執務室にある本棚を眺めた。ほとんどが医学の本だろう。何について書かれているのかもわからなかった。
研究室とを隔てる壁の本棚には、下の段に、埃をかぶった、枕のように分厚い『フェリツ開拓全史』全5巻が収まっていた。ヤオが持っているのとは違う版だ。柳色の革張りで、タイトルが金の箔押しだった。第1巻を引き出すと、小口までが金色だった。ただ、読んだ形跡はほとんどなく、ページ同士がぴったりとくっついて、本の形をした箱のようになっていた。中間あたりで開こうとすると、メリメリと音を立てて、ページが途中から破れた。ヤオはまたそっと閉じて、元の場所に戻した。
机の背面の棚の上段には、ウィスターの医師免許が額縁に入れて飾ってあった。数十年に一度更新をするらしく、額縁同士、重なり合いながらずらりと並んでいた。一番新しいものが一番上で、真新しい額縁に入っていた。
後ろめたい気持ちになりながらも、古い方へと遡るが、なかなか果てがない。目を疑った。ウィスターは四百歳を超えていそうだった。
ヤオは古い医師免許を見るために額縁に手を触れており、人の年齢をこっそり数えていたので、横からことり、と音がした時にはぎくっとそちらを見た。
そこにも本棚があった。本棚のある壁の向こうは、私的な空間であろう。壁の中央に両開きのガラス扉があり、ガラスは細かく波打つ模様が入っていた。研究室の方は静かになったので、ウィスターが解剖を終え、何かを取りに行ったのかと、ガラス扉の方を注視した。
するとウィスターが研究室の扉を開けて、手術衣姿でマスクをして現れた。ヤオはまたびくっとした。
「ヤオさん」
「はい」
「ちょっと、見てもらってもいい? 一応、綺麗にはしたんだけど」
とても嫌な予感がした。
部屋は血の海や返り血で大変なことになっているのではと思ったが、妹を運び込んだ時から、大した変化はなかった。寝台には、左に傾けられた頭をガーゼで覆われたサリーが横たわっていた。
ウィスターは、金属製のワゴンを彼のところに押してきた。ワゴンの上には銀色の四角い盆があり、盆の上には、目玉と、白くぶよぶよした肉片が乗っている。その二つを、血管というには人工的な細い管が繋いでいた。管は、やはりこれも人工物であろう、豆くらいの大きさであったり、紙のような薄さの、いくつかの機器と繋がっていた。
「これが目で、これが脳の一部ね」ウィスターは、細いピンセットで、二つを差した。
ヤオは目を逸らし、手で口を押さえた。
「すみません、やっぱりだめだ」
「うん。あっちで話そう」
* * *
ウィスターは銀の盆を壁際の保冷庫に入れ、作業衣やマスクや、ゴム手袋を片付けて部屋を出た。医師は執務室の右面に取り付けられた黒板に、チョークで、大きく、ざっと人間の頭部を横から見た図を書いた。
「目っていうのは、もうほとんど脳みたいなもんなのよね」
眼の組織の略図を書き、メガネのテンプルのように耳の後ろを通る線を、うなじの方まで引っ張った。耳の上に四角を書いたり、耳の後ろやうなじに小さいマルを書き足していく。
「そう……ここに繋がってたのよね……」
ウィスターは、ヤオに説明するつもりでいながら、解剖で見たものを絵に描いて整理するうちに、熱中していく。
「ふん……。視神経と……脳とを……繋ぐように……機器が……埋め込まれていたのか……。見てるだけで……痛いな」
男の声がした。ウィスターは口を動かしていない。医師は黒板から目を離さずに答える。
「あ、一応、視神経は知ってるのね」
ヤオが応じたと思っているのだ。ヤオは声の主が医師であるはずがないと頭ではわかっているのに、部屋には他に誰もいないはずなので、どうか医師であって欲しいという願いで、視線が凍りつく。
──ふりむいてはいけない。
頭が危険信号を発する。石臼よりも重く首を動かす。やっと違和感に気がついたウィスターがこちらを向いた。ヤオと、ヤオの異変を目にした彼女とが、背後を見たのは同時であった。
そこには男が立っていた。
第10章 フェリシティ 終わり。第11章に続く






