第1章 王封じ/第9話 冒険|千年王国ファンタジー 幻想聖典エスキャトロギヤ

第九話 冒険

 頭上の照明板が、横たわるサリーの顔を照らしている。光ダクト口にファイバーケーブルを繋ぎ、手元を明るくするための作業用機器だ。

 細長い寝台のそばに、手術衣を着てマスクをつけたキヅキが立っている。冷淡な視線で手術道具を確認している。このときばかりは、彼女の無関心さが自信ととれ、かえって安心させられる。

 ロー・ジは椅子に腰掛けてファイルを眺めていた。周囲はまがりなりに、防菌のための幕に囲われているが、城内の医務室だった。サリーは眩しさから目を逸らすように、幕で覆いきれていない天井の隅を飾る、花模様のレリーフを眺めていた。

 遠くから風に乗ってギターの音色が聴こえる。ギターといえばアミュテュスが容易に連想された。奏者が誰か、しかとわからない。城内は広大な敷地であり、街の音も霞んでしまうから。

「あの子、また喋れるようになったりする? 機械だったら」

 サリーはそれでも、アミュテュスの失語と、編み出された超絶技巧による喋り方を思い出した。キヅキは虚空に視線を運ぶと、次にロー・ジを見た。

「人工声帯のパーツはあるよね?」

「試してみたいもんだ」

 ロー・ジはファイルから目を上げずにこたえた。

「喋れても、今度は食えなくなるだろうな。アミュテュスには無理だろ。食い意地がはってるからな」

「傷つけたくないだろうし。若い体を」サリーが言った。

「一発芸でもないと、楽師なんていくらでも換えがきくからな」

「どうやって生きていくのかしらね。これから……」

 ロー・ジは話を中断するために立ち上がった。

「さあ? 引き続きだれかに寄生して生きていくんだろ。変われないだろ、今更」

 手術台のサリーを見下ろした。瞼は連日の涙で腫れ上がり、顔全体がむくんで、喪失の向こうに全ての感情を置いてきたように、のっぺりしていたが、仰向けのため、いくらか若い時の面影が浮かび上がっていた。

「多くの人は、冒険の恐怖より、現状の不幸に甘んじる」

 サリーが夫の言葉をなぞり、薄く笑った。真似してみると、夫もきっと、誰かからの受け売りをしたのだろうと気がついた。「現状」とか「甘んじる」という固い言葉を、ふだんは聞いたことがなかった。

「情熱は、必要かもな」

 ロー・ジが思うに、「冒険」という言葉を当てはめられるほど、父は無邪気ではなかった。金の匂いを求めて突き進み、欲望という名の志を同じくした者達をまとめていく。「情熱」が、せめて父を表す上で、嘘のない、かつ肯定的な表現だった。共感できたことはなかったが、父がいなければ、今の環境はなかっただろう。

「冒険よ……」

 サリーにだってわかっている。夫には金の匂いを嗅ぎつける直感以外に、誇れるものがほとんどなかったことを。体力と鈍さが粘り強さに転化されただけ、運も味方したのだろう。サリーはシーダーを信じ、多少は崇めているそぶりの妻に徹していればよかった。その結果成功したので、三十年以上の結婚生活の中で染みついた単純さ……夫から教わった鈍感さが、人生における正しい態度なのだと確信してすらいた。

「冒険よ。あの人と、私がしたことは……あなただって……」

 サリーは顔を歪めた。夫が死んだ日から、もう何百回と繰り返して来たように。

「今日はやめとく?」

 キヅキが容赦無く言った。

 サリーは小さく首を振り、もう泣くまいと目を閉じた。掛け物の下から手を出せないので、キヅキが涙を拭き取った。目元に当てられたガーゼはごわついていた。

 ロー・ジが言う。

「これから施す機器が、あなたの新しい冒険になる。そして俺たちも前進する。さしあたっては、加齢によって衰える思考能力や、判断力が、どれくらい補完されるのかモニタリングする」

「傷跡は?」

 「加齢」と言われたことを打ち消すように、サリーがやや強く尋ねた。

「術後、髪に隠れる」

 ロー・ジは「皺に」と言いそうになり、すんでのところで回避できてほくそ笑んだ。木を隠すには森に──今更、一本横筋が増えることがなんだっていうのだろう。

「麻酔を開始します」キヅキが言った。

「あたらしいあなたに」ロー・ジは言った。

 あたらしい私に。サリーは信じた。

* * *

 サリーは柳を編んだ深い帽子の中から、網目に透ける陽を眺めていた。ひとつ……ふたつ……みっつ……。太陽を追いかけて首を動かす。

「太陽を、眺めすぎちゃだめだよ」

 後ろから青年の声がした。膝に抱かれている。お腹と、ふとももの暖かさが伝わってくる。籠の隙間から風が吹き込むと、土と青草の匂いもする。

「キラキラしてる」

 サリーの声はとても幼い。

 ──フェリックス様のかすみ柳が、太陽をやわらかくするから、目がつぶれないのよね。よく知ってるでしょ?

 たくさん喋りたいことが溢れてくるのに、うまく言えない。

 その代わりに、サリーたちは体をくっつけたり、とても短い言葉でも通じ合う。

 ゆらゆらと頭を揺らしたり、足をばたばたさせた。芯まで軽い、幼い体だ。

「子供の、目は弱いんだ」

 太陽を──、子供の──、はじめの単語で少し間を置く。独特の癖がある。

 青年が上からサリーを覗き込んだので、帽子の向こうで影ができた。

 籠を脱ぐ。目に焼きついた光の残像で、相手の顔が隠された。

「見えない」

 目をこするサリーを抱いたまま、青年は立ち上がり、木陰の奥に連れて行った。はじめは子供の様子を心配していたが、目ヤニや、鼻の下にこびりついた鼻水を素手で拭ったついでに、鼻を押し上げたり、頬を両手でこね回してから、手を離した。

「しばらくしたら、戻るから大丈夫」

 微笑みが降り注いだ。

つづく

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