千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第26章 ホテル・ダイイチ・テサロニケ
第2話 期待
千年王国紀八八八年十月十五日
隊は必要な人数を絞ったあとは、フェリツとハタジャを中心にイツダテ城に残り、ヰェナダーでの王体の復活の知らせを待つことになった。城の保守や、当面の運営のための話し合いも必要であった。
ヤオは城内の清掃を割り当てられつつ、性分に勝てず、庭園を見てまわり、宮殿ならではの手がかかった枝ぶりやフェリツでは珍しい植物を楽しんだ。庭園は数か月放置された結果、野趣が増して凶暴な美しさをたたえていた──いい見方をすれば。
ヤオは八八歳にして、感情の臨界点を初めて超えたので、気恥ずかしくもあり、飼い慣らしていたはずのこころがわからなくなり、アミュテュスの激しさからも遠ざかりたいような気がしていた。我知らずやるせなさを募らせた自分でさえ、過去から解放されるのが容易でないなら、明らかに傷ついた人にどう寄り添ったらいいだろう。呼吸をするように人を傷つける人に対してさえ、傷つけ返すのを躊躇うほどだ。つまりはなんであっても傷なんか見たくもない。
まだ少し恋愛には人生を場面転換させる力があると信じて、若さの残火をその夢に賭けてもいた。しかし、いざ愛し始めた女性を追いかけて重い帷を押しのけてみるや、有象無象の押し込まれているさまに怯んでしまった。
ヤオの視界の端、庭園の中ほど遠く、木立の間にアミュテュスが一人で歩いているのを見つけた。楽師には明かりが灯っているようで、どうしても姿を追ってしまうのが悔しかった。そっと木の間にからだを隠した。そのひととき前に、すでに楽師は庭師を見つけていたことには気が付かなかった。目の前には、竹が群生して大人が何人も手を繋いでも囲めないほどの巨木になっていた。
──これだけの竹を、他の植物とバランスよく共生させるのに、どれほどの手入れが必要だろう。気を抜けば、イツダテ宮殿の床を、筍が突き抜けて来かねない。というかむしろ、もう行ってる可能性すらある。
ヤオが、竹の株の仕立てを念入りに確認しながら一周すると、アミュテュスが立っていた。さっき目に止めた時と今とでほんの一瞬ではないか。意図的に隠れたので、竹に気を取られていたので、声が出なかった。
──ここは彼女の「庭」なんだ。文字通り。客人が、主人が瞬間移動したと思えるほど。知り尽くしているんだな。
庭師は婦人にばったり出くわしたと思っていたので、眼差しをやさしくして、彼女が元気になって、ふたたび歩き回れるようになってよかったと、無言のうちに伝えたつもりになり、その場を去るため向きを変えた。
アミュテュスはヤオが自ら背を向けたので出鼻をくじかれた。いつも一挙手一投足を観察してくる彼が、深い瞳の裏から胸の奥に何かを落としたのはわかったが、何のためにそうしたのか……不安になった。その背中の真ん中あたりでからからと鳴っているはずのものが今にも見えるのだと、追いかけた。青年の歩調は人と歩くには速いようだった。
ヤオはわざと道を折れ続け、かと思うと長々と歩き、背中に感じるアミュテュスの気配がいつ消えるかを待った。この森は彼女の庭であるので、どこかで振り切ったって、迷子になんてならないんだろうし。
ヤオはなおも、彼女が自分を探していたとは考えなかった。そぞろ歩きで出会したお互いなのだと。ちっぽけなプライドを守るために、その類の期待をこれまで幾度となく押し殺してきたのだから。
──僕はアミュちゃんの好きな花を知らないし、好きな食べ物だって知らない……とにかくなんでもよく食べるってことは知ってるけど。僕は樹を見ているだけで、庭木の最適な剪定時期のことを考えているだけで満ち足りてしまう。彼女の部屋の廊下の広さで、僕の生活は収まってしまう。今なら、何も見なかったことにできる。長い人生のうちのたった二週間……いや、もうちょっとで三週間になるけど……アミュちゃんが背中から消えたら、そのまま振り返らずに、フェリックス殿下のところまで行って、哀れな子供達のことも、彼女が発狂した恐ろしい臥も、人でなしの元夫も、全て他人の手に委ねて、僕が見たものは、彼女の名誉のためにも、思い出の中に沈めてしまおう。このお城は、二人がはぐれて、それっきり会えなかった理由にできるほど壮大で、複雑なのだから。
つづく






