千年王国ファンタジー|幻想聖典 エスキャトロギヤ 第11章 フェリツ城
第3話 麗人
「ちょっと、しっかりしてよ!」
医師から頬をぺちぺちと叩かれ、意識を取り戻した。男は眠っていたことにも気が付かず、一瞬の暗転のうちに、今どこにいるのかわからなくなった。状況を把握するためにきょろきょろする。口の中がやたらと乾いている。椅子の背に頭を預けていたので、大口を開けていたのだろう。
ウィスター医師は何かに気がついたように声を低くする。
「あなたって。もしかして。ひょっとして……」
「すまん、座ったら、寝てしまう。これの、実物は今ここにあるのか?」
立ち上がり、黒板を指の背でコンコンと叩いた。
「──はい。隣に」
ウィスターはもう一度相手の姿を頭の上から足の先まで確かめながら、態度を改めつつ言った。
「見せてくれ。説明してくれ」
「なかなか、生々しいですよ」
青年は言いながら、手にしたカップに口をつけようとした。
「生々しいのが、なんだって言うんだ……なんだそれは?」
「お茶です。ハーブの」
「それに、十杯くらい、砂糖を入れてよこせ。腹が減った」
青年に言いつけると、隣の部屋のドアを開けた。冷気と消毒液の匂いが流れ出す。横たわる死体が目に入った。立ち止まり、姿勢を正して、短く黙祷をした。
ウィスターは男が遺体にしおらしく向き合ううちに、保冷庫に向かったが、ふとサリーを見た。
「やだ。私ったら」
医師は、死体の首から下を覆っていた布を、頭の方まで引っ張り、顔を隠した。ガーゼで覆っておかなかったかしら? と首を傾げながら、保冷庫を開いた。
「あれ?」
またドアを閉め、周りを見た。
「私、仕舞ったよね?」
不思議そうに、横のワゴンの上下を見たり、ガラス戸棚の中を覗く。
「はい、そこの中に、入れてましたよ」
青年は、砂糖を入れた茶を、男に渡してきた。
ウィスターは、無駄な動作と分かっていながら、今さっきかぶせたサリーの頭の布をめくったりしたが、以前はそこに収まっていて、取り出したはずの物は、どこにもなかった。
男はヤオから砂糖入りの茶を受け取ると、もの珍しそうに医者の研究室を眺めた。部屋には三つ扉があった。執務室とをつなぐ、今彼らが入ってきたドア。右手の、廊下に繋がるドア。執務室から入って向かいの壁にあるドア。左にはガラス窓がある。屋外に面しているのだろう──しかしブラインドが窓の向こう側に掛かっていて、外は不自然に真っ暗だった。
──納戸かな。
男は、窓を眺めた。目隠しに使われている古い木製のブラインドが、ほんのわずかに揺れたような気がした。茶に口をつけた。枯れた喉を開くために。とんでもなく甘い。
──小僧。本当に砂糖を十杯分入れたな。
むせながら言った。
「おい……ごほっ、お前、出てこい」
「えっ、何?」
ウィスターは驚いて肩をすくめた。
* * *
青年は、やはり砂糖十杯はものの例えで、十分に甘くしろ、という意味だったんだ、と反省した。叱られるのかな、あまりに鬼気迫る調子だな。こういった手合いに冗談は通じないのかもしれない。
「お前だよ、そこに入ってる奴。来なければ、引きずり出す」
ウィスターも、ヤオも、男がドアに声をぶつけているのだと理解した。
しばらくの沈黙の後、ドアノブに手をかける気配がし、取っ手が回った。
──女か……。男は、軽い音に少し警戒を解きそうになった。しかし、油断は禁物とばかりに構え直し、ウィスターからは距離があるが、せめて背後の青年を庇うように立ち塞がった。
ヤオはこの事態に、万が一危険があっても見ることを選んだ。前に立った男よりも背が高いので、少し頭をずらすと、ドアが開き始める時には全てが目に収まった。
はたして、出てきたのは女だった。
戦闘の構えはなく、背後の闇の手に、ぐっと押し出されるように、毅然として現れた。
ヤオの目の前に、森の影に、光を集めるように濁りなく咲く花々が広がった。
──臥〔ねる〕のツツジ。
それは女の唇の色だった。紅というには軽く、桃色というには深い色をしていた。瞳が、森のひときわ深いところの、ほとんど黒に溶け込む緑をしていた。髪は黒褐色で、虫や菌が木の葉や死骸や糞までを食べこなし、生み出したばかりの、最高に香り高く肥沃な土の色だった。影の中にいるのに、肌は金粉をまぶしたように輝いていた。
眉毛は瞳ほど濃くなく、顔立ちを貧しくするほど薄くない。唇は結んでいて、顔だちを華やかにする一方で、攻撃的にしていた。肌は、ヤオと比べても白い方ではなかった。鼻筋には少し鼻骨が出ていた。肩の丸みに比べて胸は小さいようだった。ごくわずかずつの無欠さへの裏切りが、意志の強固さを、平時から、彼女自身隠してはいないことを物語っていた。無垢ではなく、偏屈そうですらあった。
ヤオは自らがよこしまな人間だと思ったことはなかった。そうならないように生きてきた。でも彼女を見て、これまで踏み行ってきた森の、じっと見つめるには恐ろしすぎる深さと淀みの部分さえ、木漏れ日を求めるのと同じくらい受け入れていたと知った。
女を見て、ヤオのこころは完成した。
ヤオは一目惚れをした。






